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2020年08月28日

「弁証論治」「方証相対」雑感(1982年 昭和57年2月号の『漢方研究』誌の巻頭拙論

 1982年(昭和57年)2月号の『漢方研究』誌の巻頭を飾った村田恭介31歳の拙論

 なお、本論は、中国の『中医薬年鑑 1984年』の472ページに参考文献として引用されている。    
 本誌(1981年12月号)の森雄材先生の「中医学の体系」その他同先生のこれまでのご論文(1979年10月号、1980年4月号)、および山崎正寿先生の「日本漢方と中医学」(1981年2月号)と題されたご論文を拝読して感じたことを、少しく述べさせて頂きたいと思います。

 「弁証論治」の立場は理論的にも実践的にもかなり首尾一貫し、合理的で発展性のある医学体系であると感じています。
 ところが、理屈どおりに行かない「例外」の存在するのが、あらゆる領域に共通する不可避的なことだと仮定すると、その欠を補うのがあるいは「方証相対」の立場ではないかと考えています。
 しかし、この点はもっと深く研究して考察を重ねて行く必要があります。
 
 さて、次に、私なりに「弁証論治」の立場を批判的に論じながら、「方証相対」の立場のあり方、存在意義を考えてみたいと思います。
 「弁証論治」により処方を組立てる際、患者の疾患の普遍性に対する処方が決定し、次に特殊性に対する加減すべき薬物の選択を行う時、ここに、たとえば、十人の医師(一定レベルの技術を有する人達)が、同じ弁証論治の結論によって処方を組む場合、特殊性に対する薬物の選択が、十人が十人、すべて異なったものになり、それぞれに内容の異なった処方を組立ててしまう可能性が強いのです。それは中草薬には類似した効能性質を持つ薬物が多いからです。

注記:ここで述べられている普遍性と特殊性について、森雄材氏は「漢方研究」誌1981年11月号で次のように述べられている。すべての固体を通じて平均値的にあらわれる状態、すなわち普遍性(共通性)と、体質・時期・環境などの違いによって固体にあらわれる修飾された状態、すなわち特殊性(個別性)である。弁証では一般に普遍性を把握するとともに特殊性にも注意を払う必要があり、論治では、普遍性に対して基本的な治法をきめ、そのうえで特殊性に対する加減を行って対応する(随証加減)のである。要するに、普遍性とは教科書的な弁証分型のことである。

 また、普遍性に対する処方の組み立て内容さえも、十人十色のものとなる可能性が強いのです。何故なら、矢張り中草薬中には似た効能・性質を有する薬物が多いからです。(当然、処方の弁証分型は同一ですが)。

 これら一定レベルの医師達十人それぞれが組立てた処方を患者に投与する場合、それぞれの処方の治癒に導く能力の差違も当然考えられます。
 この時、どの医師の組んだ処方が一番すぐれたものと判定できるのか。弁証論治の結論が全く同一で、組立てた処方もすべて理に適っている訳だから、この十人の提出した処方の優劣は如何にして判定できるのか。

 視点をかえれば、一人の医師でも、同一患者に対して、弁証論治で得た結論によって何通りもの処方を組むことが可能な訳で、この場合にも、どの処方内容のものが一番すぐれていると判定できるのか。
 このような素朴な疑問に対する答えは、「医師(投薬者)の熟練の度合、言いかえれば、経験から得た勘がものを言う」のだ、ということにでもなるのでしょうか。
 このような疑問は、これまでに目を通して来た多くの中医学の公式的な治療書や医案集等をそれぞれ比較して常に感じて来たことなのです。

 しかるに、この薬物選択の問題こそは、各薬物の薬能薬理についての、これから先、将来にも引き続き行われるべき深い研究と開発に俟つべきものが多く、そしてそのことこそ、中医学の発展性を最も内臓している領域なのであろう、と理解していました。
 これ等のことを考える時、森先生の言われる「方剤の薬能・薬理・生薬の薬能・薬理についての漢方医学的な定義はすでにほぼ定まっている」とのお言葉に対して、大きな疑問符を投げかけない訳には参りません。

 ここまで考えてきますと、逆に「方証相対」の立場もあまり馬鹿にできないのではないか、と思われて来ます。

 とりわけ、弁証論治があまりに複雑になり、同じ弁証論治の結論によって、十人十色の処方が組立てられ、あるいは一人でいくつもの方剤を組立て、加減薬物の選択に右顧左眄するくらいなら、先ずは「方証相対」の立場をとり、それによって投薬した後、その結果を見て、再び「弁証論治」を行う、この二つの立場を併行させて考えて行くやり方が生まれて来ないものか、と思われるのです。

 そこに、「方証相対」の立場も、それなりに存在意義が出て来るのではないでしょうか。

 また逆に、弁証論治をするにはあまりに単純すぎる場合にも、「方証相対」の立場をとった方が有利なことがあるかも知れません。

 そこで、ここに特に強調したくなるのは、一般に中医方剤学で示される基本処方を「方証相対」の立場から、(山崎先生の言われる)「方剤が適用される病態、その病因、診断法、鑑別」を明らかにする努力を行えば、「弁証論治」で使用される基本方剤を発展的に批判検討出来るのではないか、ということです。

 これ等こそ、日本漢方と中医学の発展的統合への、ひとつの足がかりになるのではないでしょうか。
 「方証相対」論は明らかに日本の最大の特質のひとつであり、それにも増して、あるいはそれなるが故に、日本漢方の特長は、中医学に比較して、ひとつの方剤を様々に工夫・応用する伝統があり、将来もこの特長を大いに活かすべきだと考えるからです(たとえば、柴胡桂枝湯のように)。

 日本漢方における「柴胡桂枝湯」のような広範囲な活用方法は、それこそ日本漢方中の白眉であり、その他の処方の活用においても多かれ少なかれ共通した特長があります。
 とりわけ腹診による「方証相対」のあり方についてまでも「天動説」だと極め付けるには、さすがにコペルニクスでさえ、躊躇するに違いありません。

  「弁証論治」と「方証相対」の問題は対立的にとらえるよりも、むしろ互いに相補うべきものとして考えた方がより発展的であると確信致します。

《注記》
 「弁証論治」という用語の「論治」には、本来、治則と治法および処方までが含まれるのですが、便宜上、森先生の示された下記の図によって、治則と治法までとし、論治から処方を切り離した用語として使用したことをお断り致します(「弁証論治」と同義の「弁証施治」という用語がありますが、「論治」は治則・治法までとし、「施治」は治則・治法・処方を含む、とした方が便利ではないか、と提案致します)。
posted by ヒゲジジイ at 13:07| 山口 ☀| 弁証論治と方証相対 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月05日

次亜塩素酸水の使用を中止する企業や学校が続出

 文部科学省によれば、
1.日常的な消毒について
@消毒薬等について
・物の表面の消毒には、消毒用エタノールや0.05%の次亜塩酸ナトリウム消毒液*を使用します。また、一部の界面活性剤で新型コロナウイルスに対する有効性が示されており、それらの成分を含む家庭用洗剤を用いることも有効です。
次亜塩素酸水は、「次亜塩素酸ナトリウム」とは異なるものであり、新型コロナウイルスに対する有効性についてはまだ十分確認されていません。
*児童生徒等には次亜塩素酸ナトリウムを扱わせないようにしてください。
A消毒の方法について
・児童生徒等がよく手を触れる箇所(ドアノブ、手すり、スイッチなど)や共用物は1 日に1回以上、消毒液を浸した布巾やペーパータオルで拭きます。
・トイレや洗面所は、家庭用洗剤を用いて洗浄します。
・消毒作業中に目、鼻、口、傷口などを触らないようにしてください。
・換気を十分に行います。

〇エタノールを使用する際の注意点について
・エタノールを布等に含ませ、消毒対象を拭き、そのまま乾燥させます。
・揮発性が高く、引火しやすい性質があるため、電気スイッチ等への直接の噴霧は故障や引火の原因になります。
〇次亜塩素酸ナトリウムを使用する際の注意点について
・次亜塩素酸ナトリウムで消毒する際は、必ず手袋を着用します。なお、ラテックス製ゴム手袋を使用する場合はラテックスアレルギーに注意が必要です。
・手指消毒には使用しないでください。
・色落ちしやすいものや腐食の恐れのある金属などには使用しません。
・非常にアルカリ性が高く、薄めた液でも材質によっては変色や腐食を起こす場合があることから、拭いた後は必ず清潔な布等を用いてしっかり水拭きし、乾燥させます。
・希釈した次亜塩素酸ナトリウムは使い切りとし、長時間にわたる作り置きはしないよう
にします。
・次亜塩素酸ナトリウムの噴霧は、吸ったり目に入ったりすると健康に害を及ぼす可能性があるため、絶対に行わないでください。
・製品の使用上の注意を熟読の上、正しく取り扱ってください。

〇次亜塩素酸水の噴霧について
・次亜塩素酸水の噴霧器の使用については、その有効性及び安全性は明確になっているとは言えず、学校には健康面において様々な配慮を要する児童生徒等がいることから、児童生徒等がいる空間で使用しないでください。

(以下略)
   ━学校における消毒の方法等について より
     
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posted by ヒゲジジイ at 21:21| 山口 | 新型コロナウイル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月31日

新型コロナウイルに対する次亜塩素酸水の有効性が怪しいという中間報告

 コロナに対する次亜塩素酸水の有効性が怪しくなっている。

製品評価技術基盤機構(NITE)は、新型コロナウイルスへの消毒目的として利用されている「次亜塩素酸水」について、現時点において「新型コロナウイルスへの有効性は判断できない」との中間結果を公表した。特に、噴霧での利用は安全性が確認されていないと注意喚起している。
   ━次亜塩素酸水、噴霧での利用は控えて より

 エタノール消毒こそ理想的で、エタノールが70〜80%含有溶液が望ましいが、北里大学の調査では50%以上含有しておれば有効で、不活性化できるが、それ以下の含有率の溶液は無効というデーターが報告されている。
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posted by ヒゲジジイ at 10:20| 山口 ☔| 新型コロナウイル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月27日

少陽三焦とは、膜原と腠理から構成される機能体である

 新型コロナウイルスに感染すると、少陽病期の症状に対する配慮が重要である。それゆえ、特に注意を払うべきは、少陽三焦に対する理解がなければ、適切な方剤を見出すことができない。

 そこで過去、拙著の中から関連部分を引用して参考に供したい。
膜原と腠理 (まくげんとそうり)
 少陽三焦とは、陳潮祖教授が御高著で指摘するように、膜原と腠理から構成される機能体を指している。そしてこれらは肌表、五臓六腑、四肢百骸の各組織と連絡し、津と気が昇降出入する交通路となっているものである。
膜原と腠理
膜原(まくげん)は臓腑や各組織器官を包み込む膜のこと。
腠理(そうり)とは、膜外の組織間隙のこと。

 もっと詳細に述べれば、腠理というのは、皮膚・肌肉・筋腱・臓腑の紋理や間隙などの総称であり、皮腠・肌腠・粗理・小理などに分けられる。腠理は体液のにじみ出る所であり、気血が流通する門戸であり、外邪が体内に侵入するのを防御する働きがあるなどと解釈されるのが一般であるが、

 下線部の「気血が流通する」とい点については疑義があり、「気津が流通する」というように、気と津に限定すべきだと愚考する。血を全面的に含めてしまうと、あまりにも流通物質が拡大し過ぎるので、主として気と津とにある程度限定的に捉えたほうが合理的であろう。

 ともあれ三焦とは、膜原と腠理から構成される機能体を指しているわけだが、これらは肌表・五臓六腑・四肢百骸の各組織と連絡し、津と気が昇降出入する通り道である。

 そしてこの膜原と腠理はまた、肝が主る筋膜組織に属するものであるから、疏泄を主る肝との関係は大変密接なものである。それゆえ、肺気・脾気・腎気ばかりでなく肝気も加わって、主にこの四臓の機能が協力して実現される「津気の運行」が実際に行われている区域こそ、膜原と腠理から構成される「少陽三焦の腑」としての実体なのである。
 と同時に、これら肺脾腎肝が協力して行う津気運行の働きのみを取り出して概括したものがすなわち「少陽三焦の機能」の実体である。
膜原と腠理(まくげんとそうり)より
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2020年04月19日

新型コロナウイルスの予防ワクチンの開発が無駄になる理由

 案の定、ウイルス表面に突起状の「スパイクタンパク質」受容体結合ドメイン(RBD)の突然変異が、既に見つかっている。

「コロナに重大な突然変異発見…ワクチン開発が無駄になる可能性」

 各テレビ局では、ワクチンの開発に期待を寄せている報道がうるさいほど盛んだが、無駄なワクチンを開発するよりも、治療薬の開発の方が、はるかに有益だろう。

 新型コロナウイルスは、1本のリボ核酸(RNA)で構成されたものだけに、2本の核酸で構成されたDNAとは異なって、安定性がかなり低く、突然変異が起きやすいという当然の問題を隠して、専門家たちは、マスコミに売り込む研究者も散見されるが、実に罪深い話である。

 ワクチンが開発された暁には、皆が喜ぶ割には、ちょうどインフルエンザワクチンが殆ど効果がないのと同様、製薬会社と研究者を儲けさせるだけで、犯罪行為に近い、というのは言い過ぎだろうか?
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posted by ヒゲジジイ at 23:05| 山口 ☔| 新型コロナウイル | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする