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2018年11月12日

『中医学と漢方医学』(5)漢方医学(日本漢方)の虚実論における錯誤

 (5)漢方医学(日本漢方)の虚実論における錯誤

 あいまいな漢方理論は、体格のみかけによって虚実を判断して良しとする誤解すら招く。
 病人を実証、虚証、虚実間の三通りに分類し、それぞれ恣意的に決められた実証向け、虚証向け、虚実間向けの各処方にあてはめようとするパターン認識の方法が漢方医学の精髄であるとするなら、極めて幼稚な医学と言わざるを得ない。

 民間療法を漢方薬より幼稚な療法であると下に見る風潮が一般であるが、このような医学であるのなら、漢方医学も民間療法に毛が生えたくらいのものだと言われてもしかたないのではないだろうか?

 このように虚実の問題一つを取り上げてみても、中医学におけるそれと比較すると、漢方医学理論が如何に底の浅い基礎理論であるかが分る。
 漢方薬がしばしば著効を現すことを認めるに吝かではないが、このような基礎理論であっては、これを医学と言うには、あまりに貧弱すぎはしないだろうか。

 たとえ複雑に理論が錯綜しようとも、より科学的で且つ論理的に体系化された中医学の基礎理論の病態認識の在り方に学ぶべき所は多い。
 基礎学という面から比較して見ても漢方医学が医学と呼ばれ、医学として誇れるほどの理論や体系があるとは、私にはとうてい思われないのである。

続きは⇒(6)中薬学に比べてあまりにも見劣りがする漢方薬学
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2018年11月11日

『中医学と漢方医学』(4)臨床実践上の虚実論の比較

(4)両医学におけるにおける臨床実践上の虚実論の比較

 私自身は漢方医学と並行して中医学を学習し始めて十数年間になるが、その過程で、漢方医学を批判的に眺めはじめたきっかけ(文献D)は虚実の問題からであった。

 漢方医学の考え方において、体質及び方剤を実証、虚証、虚実中間型に分ける特有のやり方には、多々問題があるように思われる。
 体力が余っているのを実証、体力が衰えているのを虚証と決めるやりかたは非科学的であり漠然とし過ぎている。
 実証用、虚証用、或は虚実中間用とされる方剤にしても恣意的な感を免れない。

 それに比較して、「実とは外因、内因を含めた病邪の存在を言い、虚とは生体の機能面、物質面の不足を意味する」と規定する中医学のありかたにおいては合理的な病態把握が可能である。
 即ち、多くの病人は、とりわけ慢性疾患の場合、虚実挟雑しているのが一般であり、それ故、「扶正祛邪」の治法が自明のこととなる。

 ところが漢方医学に従っていると、体力の強弱のみで虚実を論じ続けるあまり、病邪の存在の問題を忘れ兼ねない。

 例えば、桂枝茯苓丸を実証用、加味逍遙散を虚実中間用、当帰芍薬散を虚証用として恣意的に決め込んでしまい、同一の病人に、これら三処方すべてが同時に必要とする病態が存在する発想すら浮かんでこない(文献B)(文献E)。

 尤も、これは敢えてエキス製剤で投与する場合の話で、湯液で行う場合はもっと合理的な処方が可能であるが、これはもっぱら中医学理論における弁証論治でのみ成し得ることである。

文献

(文献B)菅沼栄著「中医方剤学とエキス剤」(「中医臨床」誌1988年9月 通刊34号)東洋学術出版社発行
(文献D)村田恭介著「求道と創造の漢方」1985年5月 東明社刊
(文献E)村田恭介著「加味逍遙散加桂枝桃仁について」(「和漢薬」誌1978年4月号 通刊299号)

続きは⇒(5)漢方医学(日本漢方)における虚実論における錯誤
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2018年11月10日

『中医学と漢方医学』(3)中医学基礎と漢方医学基礎

(3)中医学基礎と漢方医学基礎

 さて、中医学における前述の三つの基礎課程、即ち、中医基礎学、中薬学、方剤学は、漢方医学においては、どういうものが該当するであろうか?

 まず、中医基礎学に該当するものは当時、長濱善夫著「東洋医学概説」、西山英雄著「漢方医学の基礎と診療」などがあったが、その後、私の知る限りでは、山田・代田共著「図説東洋医学」のみである。

 漢方基礎学は、「陰陽」、「虚実」、「表裏」、「寒熱」、「気血水」を特に重視し、三陰三陽の六経弁証、日本特有の腹診法等が主であって、その他の細かいところは、傷寒論、金匱要略に重要なことはすべて書かれているとする立場が中心であるようだ。

 黄帝内経思想は、書物によっては大いに取り上げられているようだが、鍼灸治療の立場と異なって湯液治療の臨床的運用においては、それほど重要視されていないのが平均的なところであるように思われる。

 そして未だにこれが漢方医学であると示される程に体系化された教科書、または教科書的な基準が出来てはいない現実はいかにもさびしい

続きは⇒(4)両医学におけるにおける臨床実践上の虚実論の比較
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2018年11月09日

『中医学と漢方医学』(2)昭和末期の漢方医学の一般的な学習方法

(2)昭和末期の漢方医学の一般的な学習方法

 ところで漢方医学においてこれ等に該当する教科書的なものはかなりいびつであった。
 私自身が過去十六年間に学習した経験を思い返してみても、主軸は漢文の素読に始まるご存じ傷寒論、金匱要略の原書。
 そして一字一句に拘泥する綿密な読解と解釈。

 この読解と解釈の為には、先人の書かれた多くの各解説書も必要であった。それになお、実践に即役立つ吉益東洞著、尾台榕堂註の「類聚方広義」、口訣集と言われる先人の臨床経験談の数々の書籍や近年の臨床家による処方解説書。

 漢方は傷寒論に始まって、傷寒論に終わるとさえ言われた時代でもあったと思うが、実際の臨床面では、傷寒、金匱の研究以外に、臨床家による処方解説書と現代人による治験例集の数々の読書によって、処方運用の実際を学びつつ、即実践に役立てていた。

 最近、仄聞したことだが、中国から某科の西洋医学を学びに来日した西洋医師が、日本の漢方は、傷寒、金匱が中心的な教材であることを知って、あまりの時代遅れに驚き、また健康保険で使用される処方内容のアンバランスさと、小柴胡湯などの乱用に等しい使い方(文献C)を見て、全くあきれ果てたということであった。

文献

(文献C)村田恭介著「漢方経験雑録」(「和漢薬」誌1988年4月号 通刊419号)ウチダ和漢薬発行

続きは⇒(3)中医学基礎と漢方医学基礎
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2018年11月08日

『中医学と漢方医学』(1)方証相対と弁証論治

1989年月刊『和漢薬』誌1月号(通刊428号)巻頭論文として掲載された拙論『中医学と漢方医学』(村田恭介著)のほぼ全文をほとんど修正せずに転載。決して古びた内容とは思えない。
 平成元年1月、本場中国の漢方、中医学が日本国内に次第に認識され始めた1980年代後半に漢方と漢方薬の業界紙に書いた拙論。当時の漢方界の時代状況の一端を反映しているはずである。

     (1)方証相対と弁証論治

 中国では「漢方」と言えば日本の伝統医学、すなわち漢方医学のことであり、中国の伝統医学はすべて「中医学」であって、漢方とは言わない。「漢方」という言葉は元来が日本語である。(文献@)  
 であるから、漢方医学と言えば日本の古方派、後世方派、折衷派を総称したものの様である。尤も昨今は折衷派が大半のように思われる。

 漢方医学の特徴を要約すれば方証相対論による処方単位のパターン認識が主体ということであろう。【病態認識】がそのまま【方剤=実際処方】として短絡的に繋がり、その病態認識ですら、方剤の名称を持って来て、何々湯証として認識される。
 常に方剤中心の医学と言っても過言ではない。後述するような中医学の中核である「弁証論治」の様に【病態認識】【治法】【方剤】【実際処方】(文献A)と連携される訳ではない。
 
 ところで近年、新たな勢力として現代中国医学、即ち中医学派が台頭しつつあるのは周知の通りである。
 この中医学とは、陰陽五行論を基礎概念として広い中国国内の多くの流派、多くの学説を整理し系統的に総括統合し平均化して構築された一大医学体系である。
 その特徴は、弁証論治が中核となる。【病態認識】【治法】【方剤】【実際処方】(文献A)と連携され、それぞれの項目において厳密且つ系統的な思考が要求される。
 その病態認識はかなり統一された豊富な専門用語によって表現され、系統的分析的に整然と把握される。その後に続く【治法】【方剤】【実際処方】においても同様である。

 この中医学の中核をなす弁証論治を多少とも満足に行えるようになるには、中医学特有の哲学理論に基づいた複雑な全体系を系統的に学習しなければならない。
 現在の中国においては、菅沼中医師によれば、「中国の中医学院では、カリュキュラムは中医基礎学、中薬学、方剤学の三課程が基礎医学の柱」(文献B)となっていると言われる。
 それ等の教科書類の原書、或はそれに類する原書は、今日かなり自由に手に入れることが出来る。但し、これら三課程は最低の基本線であることを忘れてはならない。

  文献

(文献@)張瓏英著「臨床中医学概論」自然社発行/緑書房発行
(文献A)田川和光著「漢方エキス剤の中医学的運用」(「中医臨床」誌1988年9月通刊34号)東洋学術出版社発行
(文献B)菅沼栄著「中医方剤学とエキス剤」(「中医臨床」誌1988年9月 通刊34号)東洋学術出版社発行

続きは⇒(2)昭和末期の漢方医学の一般的な学習方法
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2018年11月07日

『中西医結合への道』第5章:ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは、中医学における病機(≒証候名)であった!

ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは、中医学における病機(≒証候名)であった!
                    村田恭介著

 弁証論治における弁証の世界では、四診によって認識される一連の症候にもとづいて把握される「疾病の本質(病機≒証候名)」を構造とみることができる。このときの構造(病機≒証候名)は、要素集合(一連の症候)に構造法則(中医学理論という文法)を用いて解読する仕組みになっている。つまり、

 構造(病機<疾病の本質>)=要素集合(一連の症候)+構造法則(中医学理論

 と定義することができる。〔勁草書房発行・上野千鶴子著『構造主義の冒険』の15頁参照〕

 けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造論的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては―ミクロ的にはともかく―マクロ的には構造論的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は非科学的と言われてもしかたがないのである。したがって、現在の西洋医学においては、

 構造(病名<疾病の本質>)=要素集合(諸検査を含めた自他各症状)+構造法則(西洋医学理論)

 という関係式は成立し得ていない。

 つまり、西洋医学には全体系を支配する構造論的観念が欠如しているために、西洋医学理論は構造法則としての文法が不完全なものであり、それゆえに西洋医学における病名は、構造分析によって導き出される「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない。ロラン・バルトが嘆かれたのも当然なことである!

 それゆえにこそ、整体観の確立した中医学に、西洋医学を吸収合併させるべきであろうと、村田恭介は提唱するのである。ロラン・バルトやミシェル・フーコー等が、中医学を村田レベルにでも知っていたら、きっともっとスケールの大きなことを提案したに違いないのである。

 なお、中医学における記号学的な考察が別ボタンの『村田恭介主要論文集』の「No.012 脾湿についての考察」の中の一部にあるので、これをご参照願いたい。これをロラン・バルトが見たら、大喜びされたに違いない。

●「記号学的な考察」>>>⇒「病機の呼称における記号学的な問題点
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2018年11月06日

『中西医結合への道』第4章:記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)

ミシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学を知っていたなら
村田恭介著

 フランスのミシェル・フーコーの著作『臨床医学の誕生』(みすず書房)や、ロラン・バルトの『記号学と医学』(みすず書房発行の『記号学の冒険』中の論文)などで行われた西洋医学に対する構造分析は、極めて示唆に富むものではあるが、整体観の欠如した西洋医学が対象であっただけに、不満足な成果しか得られていないように思われる。

 たとえば、ロラン・バルトが『記号学と医学』の中では、次のように述べている。

 徴候学(セミオロジー)と名のついた書物を見れば、医学的な記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)のいくつかの原理を容易に引きだすことができるだろうと思っていた。ところが、そうした書物は、私に何も教えてはくれなかった。

 さらに、バルトもフーコーも、

 病気を読み取るということは、病気に名前をつけることなのである。

 と指摘しているが、西洋医学的な病名=診断名を示すことで、果たして十分に「疾病の本質」が読み取られていることになるのだろうか。病名が把握できたとしても、対症療法は別にして、それが臨床的治療に直結出来ないことが多いのが、西洋医学の慢性疾患に対する弱みでもあることは、誰しも否定しないことと思われる。奇しくもそのことを先ほどのロラン・バルトの口から嘆きの言葉として吐き出されている通りである。

  一方、中医学においては、病気を読み取るということは「病機を把握すること」であり、病機は徴候(セミオロジー=一連の症候)にもとづいて把握され、病機(≒証候名)を正確に把握できれば、治療方剤もおのずと決定され、治療効果も比較的良好なことが多い。このように、中医学では臨床医学としての治療実践が、病態認識に連動して行えるように体系化されているのである。

   ロラン・バルトは、1972年に発表した前述の『記号学と医学』において、

 今日の医学は、今もなお本当に記号学的=徴候学的なものであろうか?

 と、西洋医学への大いなる問いかけを残しているが、それから32年後の今日、飛躍的に進歩・高度化した現在の西洋医学にとっても、極めて意味深長な筈である。

 それにしても、フーコーやバルトがさらに中医学をも対象として、記号学=徴候学〔症候群≒一連の症候=証候 ⇒ 証候名(病機名)≒病機〕を研究していたなら、きっと「中西医結合」の素晴らしいヒントを提供してくれていたに違いない。当時では時代の制約上、彼等が中医学を知る由もなかったのだろう。現在ではフランス国内でも中医学の学習熱が日本以上に盛んであるらしい。フーコーやバルトの後継者たちが、西洋医学と中医学の融合を目指した臨床医学の構造分析の研究が、既になされつつあるのではないかと、密かに期待しているところである。

続きは⇒ (5)ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは中医学における病機(≒証候名)
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2018年11月05日

『中西医結合への道』第3章:中西医結合への道

中西医結合への道

村田恭介著

 五臓間の整体関係については、五臓の組織構造は連繋して一体化し、機能活動は相互に強調し合っているので、五臓を関連付けて分析し、整体関係に注意してはじめて症状に対する認識を見誤ることなく有効な施治を行うことができる。それゆえ、他臓の疾病に対する脾胃の論治や、脾胃の疾病に対する他臓の論治などのことは、実際の臨床では日常茶飯事である。

 このような五臓の整体関係を重視する中医学は、スイスの言語学者ソシュールを先駆とする「構造論」的な分析方法と見事なほどに一致していると思われる。つまり、言語の様相を体系的にとらえ、各言語間の機能的連関を明らかにして言語の法則を追究する「構造言語学」を主要なモデルとする科学的な分析方法、すなわち「構造主義」を立脚点とする方法は、中国では古代から当然のように行われていたのである。中国の歴代の医家に言わせれば「なにをいまさら」という冷ややかな言葉が発せられるに違いない。

 フランスの高名な精神科医ジャック・ラカンは、ソシュールの言語学をモデルとして、「無意識は言語のように構造化している」という命題を出発点としたが、「生体内の生命活動も言語のように構造化されている」と言えるのである。と言うよりも、これは順序が逆で、もともと「人体の生命活動は構造化されたもの」であるがゆえに、その生命の宿る人間同士の意思疎通の道具である「言語」が構造化されていて当然であり、それゆえ、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」という命題を出発点にすることが出来たのであろう。

 五臓相関の「陰陽五行学説」は構造主義的な科学理論であり、中医学から見た人体の基本構造は「五行相関にもとづく五臓を頂とした五角形」であり、病態認識の基礎理論となる構造法則は「陰陽五行学説」にほかならない。

 この陰陽五行学説にもとづく「中医学理論」こそは、よりハイレベルな構造法則としてよりきめ細かく綿密化されてあらゆる病態に対応できるように発達・発展していく必要がある。それゆえ、ミクロ的な部分で優れた視野を持つ西洋医学の成果を中医学の不足部分を補うべく、いかに取り入れるべきなのか。

 マクロ的では整体観の乏しさから非科学性を指摘されかねない問題を残しながらも、ミクロ的な部分で高度に発達した西洋医学をより有効に活用すべく、中医学に吸収合併させるという大胆な発想も、以上の考察から少しは理解してもらえるのではないかと愚考するものの、これではまだまだ納得して頂けそうにないので、極め付の思想家二名にご登場願うことにしたい。

続きは⇒ (4)ミシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学を知っていたなら
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2018年11月04日

『中西医結合への道』第2章:中西医結合への道―脾胃を例として―(中医学に西洋医学を吸収合併すべし)

中西医結合への道―脾胃を例として
    中医学に西洋医学を吸収合併すべし  村田恭介著

●脾胃はすべての疾病と関連する

 「脾胃は中土に居す」と言われるように、五臓系統の中で最も中心的な部分である。ところで、小題の「脾胃はすべての疾病と関連する」との表現は、もちろん他蔵についても五臓間の整体関係から同様な表現が可能であることは言うまでもないが、脾胃系統については特に強調しておく必要がある。

 すべての疾病の基本構造は、「気血津精の昇降出入の異常と盈虚通滞」と言え、五臓の生理機能はいずれも気血津精の生化輸泄(生成・輸布・排泄)と関係がある。気血津精に過不足(太過や不及)が生じたときが病態であり、五臓間の相生・相克関係は、気血津精の生化輸泄に直接関与している。

 この疾病の基本構造にもとづいて考察すると、脾胃は中焦に位置して五臓の気機が昇降するための中軸であり、他のすべての臓腑と極めて緊密な関係があるので、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及する。

 また、五臓六腑は機能活動を維持するために、精気血津液を基礎物質として必要としており、脾胃の納運する水穀精微は精気血津液を生成する基本的な源泉であるから、脾胃と精気血津液の摂納・生成・輸布・排泄とは密接な関係がある。それゆえ、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及するのである。

●他臓の病変に脾胃の論治が必要な場合

 眩暈を主訴とする肝病に対して半夏百朮天麻湯が適応するとき、口内炎を主訴とする心病に対して半夏瀉心湯が適応するとき、浮腫を主訴とする腎病に対して分消湯や補気建中湯が適応するときなどがある。

 逆に、脾胃の疾病に他臓の論治が必要な場合は、嘔吐を主訴とする疾病に対して、腎系統の治療薬である五苓散が適応するときや肝胆系統の治療薬である小柴胡湯が適応するとき、下痢を主訴とする疾病に対して腎系統の治療薬である真武湯や五苓散が適応する時などがある。

続きは⇒ (3)中西医結合への道
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2018年11月03日

『中西医結合への道』 第1章:医学領域における「科学」としての中医学(中医学に西洋医学を吸収合併すべし)

 2007年頃に書いた拙論だが、長文なので5章に分けて転載
 中国古代の陰陽五行学説を構造主義科学として理解することから見えてくる中西医結合の方向性を論じたつもりだが、フランスのポストモダニストたち、とりわけミッシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学の実体を知っていたなら、西洋医学は大きく変わっていたであろうと思われるのである。
医学領域における「科学」としての中医学
     中医学に西洋医学を吸収合併すべし  村田恭介著

 構造主義科学の論者、池田清彦氏(山梨大学教育学部教授)の諸論『構造主義生物学とは何か』『構造主義と進化論』『構造主義科学論の冒険』などを拝読して、村田流に理解したところでは、おおよそ次のようである。

 科学とは現象間の関係記述である。つまり、科学とは変転する現象間の関係を、なんらかの不変の同一性(構造・形式・公理など)によって記述しようという営為である。

 したがって、あらゆる科学理論というのは構造(構造・形式・公理など)という不変の同一性によって、現象という変なるものを変換し体系化したのもである。

 それゆえ、最終的に正しい究極の理論というものはあり得ず、より多くの現象を説明できる理論が、より有効な理論と言えるだけであり、背反する二つの理論が同じくらい有効なときでも、必ずどちらかの理論が間違っている、などということは決して出来ない。

 この二つの背反する理論の具体的な例としては、取りも直さず西洋医学と東洋医学の対比が典型的であり、西洋医学理論と中医学理論を比較すればおのずと明白である。両者における病態観の相違を検討すれば、容易に察することが出来る筈である。陰陽五行学説にもとづく中医学理論そのものがすでに現象間の関係記述という構造主義的な理論構成をなしているだけに、医学理論における極めてユニークな科学理論として、再認識してしかるべきであろう

 けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造主義的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては(ミクロ的にはともかく)、マクロ的には構造主義的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は実際のところ、むしろ「非科学的」であると言われても反駁出来ないのではないだろうか。

 中医学においては、陰陽五行学説という人体観・整体観が基本原理となっており、これにもとづく中医学理論は、よりハイレベルな構造法則として常に進歩・発展していく必要がある。

 また、中医学における弁証論治では、西洋医学に当たる診断部分が「弁証」であり、四診によって認識される「一連の症候」にもとづいて把握される病機(疾病の本質)≒証候名が、その患者の疾病構造を示す病名となる。

 一方、西洋医学においては全体系の原理となる陰陽五行学説のような構造論的観念が欠如しているために、ある特定の患者の診断において、自他覚症状を含めた各種諸検査にもとづいて導き出された診断名(病名)は、その疾病構造を示すものとはなり得ていない。つまり、西洋医学理論は統一的な構造法則としての文法が不完全であるために、西洋医学における病名は、構造分析によって導き出される「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない訳である。

 それゆえ、中医学に西洋医学を吸収合併させ、西洋医学の特色である諸検査を有効に活用する方向こそが、臨床医学という現実に即した今後の新しい医学の方向であると思えてならないのである。

 とは言え、小論の目的は我田引水的に中医学が完全無欠であると思い上がった議論を展開しているものではなく、あくまで構造主義科学論の立場から見ると、中医学理論およびその原理である「陰陽五行学説」そのものが、一つの立派な科学理論であるという証明と同時に、その視点から観察すれば、西洋医学においてさえ全体観という視点に立てば、非科学性が見えて来ることを強調しておきたいのである。

 のみならず、最も重要なことは、中医学という西洋医学とはかなり異質な医学において、ミクロ的には高度な科学性を有する西洋医学に、構造論的に見てかなり完成度の高い中医学を結合する視点を持っても良いのではないだろうか。

 科学的な理論体系として既に完成度の高い中医学に、マクロ的には完成度が低く、全体観からすればかなり非科学的でさえある西洋医学とを合併させることこそ、疾病の本質をよりよく把握し、疾病治療を最終目的とする臨床医学の要求に応え得る、より優れた医学・薬学が創造される道ではないかと愚考するのである。

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2018年11月02日

中医学と日本漢方の接点とは

1990年発行の「中医臨床」誌通刊42号(東洋学術出版社)に発表論文

中医学と日本漢方の接点としてのエキス剤
                       村田恭介

 中医学の特徴の一つに、手許に十分な中草薬が無い場合でも、弁証論治に基づいた代替品を利用することで、一定レベルの治療効果を確保することを可能にする融通性がある、と私は思っている。例えば、天麻が手許に無い場合、肝風内動による痙攣や震えには釣藤鈎、白僵蚕等で代用し、肝陽上亢から生じた眩暈、頭痛等では代赭石、石決明等で代替する、といった類である。
  数ある中医学の特徴の中で、このことは一見些末なことのように思えるが、限りある天然資源のことを思うと、日頃から代替品の研究と応用は身つにけておく必要があると思う。そして、その一つの代替の方法として、エキス剤等の既成品を利用して多くの疾患に対処することは、一定レベルの治療効果を確保できるものであるなら、服用者の便利さと共に、仕事上の能率の点からも好ましいものであろう。

             基本方剤の模倣

 例えば一つの問題として、中医学における基本方剤を日本で製造されているエキス剤等の既成品だけで代用することは不可能なものであろうか。
 血府逐お湯を使用したい時に、四逆散料合折衝飲各エキス合方で、地黄、桔梗に不足はあるものの、一応の基本的な効果は十分期待出来るようである。一般的にも既に広く行われている気虚血お証に補中益気湯合桂枝茯苓湯各エキス合方などは、時には補陽還五湯の代用品として通用出来なくもない。桃紅四物湯などは、桂枝茯苓丸料合四物湯各エキス合方。天麻鈎藤飲は、釣藤散料合黄連解毒湯合六味丸料各エキス合方。独活寄生湯は、疏経活血湯エキスと海馬補腎丸との合方。
 一部は牽強府会に過ぎる感はあるにせよ、弁証論治の基本から大きく外れなければ、代替品としての利用価値は計り知れない。

           「異病同治」について

 日本の古方派について、中医学派が多少とも注目に値する点があるとしたら、基本方剤をあまり手を加えずに徹底的に応用しようとする精神であろう。基礎理論の点で多くの問題があるにせよ、一つの基本的な方剤を大切にする精神は、ともすれば実際の臨床時において基本方剤の考察を忘れがちな者には、よい警鐘となるかも知れない。
 例えば、少しは経験を積んだ古方派にとっては、桂枝茯苓丸料エキス単方のみによって、一人の女性患者に合併する気管支喘息、頭痛、吹き出物、乗り物酔いを同時に治癒或いは軽快させる類のことは、それほど珍しいことではない。同じように、柴胡桂枝湯エキス単方によって小児喘息、夜尿症、自家中毒を同時に治癒或いは軽快させることなどは比較的多いものである。

 更に、古方派の行う経方単方による難治性疾患に対する治療例については、十分注目に値すると思われる。古方派の投与した方剤がどうして著効を奏したか、中医学的にはどのように解釈、説明が成り立つものか。この作業は、これからの日本の中医学派の行わなければならない課題であると同時にまた義務であると思われる。
 私自身の課題としても、過去に経験したことでありながら、桂枝茯苓丸料による気管支喘息等の多種合併する症候が治癒したメカニズムを中医学的に十分解明する能力を持てるようにならなければ、過去、古方派であった経験を活かすことが出来ないと思っている。

 ところで、敢えて極論させて頂ければ、中医学は「同病異治」の医学であり、古方派漢方は「異病同治」の世界であると言えると思う。従って、中医学は、《金匱要略》の世界を発展させたものであり、古方派漢方は《傷寒論》の世界を日本人独自の方法で発展させ、或いは踏襲したものと言えると思う。
 中国における傷寒論の研究は、過去の日本における研究人を遥かに上回る多数の人々による成果が堆積している筈であるが、一体、「異病同治」に対する研究は十分なされて来たと言えるのであろうか?

 張仲景は《傷寒論》において、外感疾患の伝変法則を検討する形式を取りながら、〈臓腑経絡を綱領として病機分析を進める方法〉の道を開き、世に知らしめた。一方、《金匱要略》においては、《傷寒論》と同様に臓腑の生理病理を根拠としてはいるが、病の種類別に病機を検討する構成をとっている。従って、《金匱要略》においては、《傷寒論》では存在しなかった「病名分類」が重要な位置を占めている。
 かくして、仲景は《傷寒論》を経とし、《金匱要略》を緯として、二書を縦横に連繋させ、以後の医学界に道標となる模範を示した。
 ところが、金元時代から学科の分化が始まって以後、病名別に病理を探求する方式が中心となり、《金匱要略》を基礎とした「同病異治」の理論研究が主体となったまま現在に至り、そして、それが中医学の基本的な特徴とさえなった観を呈しているようだ。

 つまりは、〈それぞれ異なった病機に同一の症状が出現する〉ことに対する治療方法の研究が、現在に至っても中心的な研究対象となっている現実は否定出来ない。
 反面、〈同一の病機においても多種類の症状が現われる〉ものであるが、この「異病同治」に直結する明確な概念の追及は明らかに遅れを取っている。仲景が示した模範を十分に発展させて来たとは言い難く、片手落ちの発展方向にあった過去から現在までの状況を認めざるを得ない。

        中医学と日本漢方の接点

 翻って、基礎理論が乏しいと言われる日本漢方ではあっても、日本漢方なりの独自の《傷寒論》研究により、〈「異病同治」こそ臨床的な現実である〉とした実践が多く行われて来た事実を認識する必要がある。たとえ、それが中医学の基礎理論なしに行われ、東洋医学からは異端なものであるにせよ。

 「異病同治」の基本概念は、当然のことながら《傷寒論》が鍵を握っている訳であるが、かくして日本古方派の《傷寒論》に対する精神と臨床実践は、この分野に対する有益なヒントを与えるものとなろう。日本の古方派の難治性疾患に対する著効例を、中医学的に詳細に解説できるようになれば、自ずから「異病同治」に対する概念の追及に大きな示唆を与えるに違いない。

 但し、この作業はお互いの派の協力が必要となるだけに、多くの困難が予測されるが、将来、必ずや行わなければならないことである。その気にさえなれば中医学理論に明るい者にとっては、それほど困難な作業とは決して思えない。
 中医学を更に発達させる素材が、この日本国内の足下にころがっていることを認識してほしいと思うのである。

        中医学の一部であるべき日本漢方

 ここで特に指摘しておきたいことは、日本の漢方も中国の伝統医学の一部でなければならず、従って日本の漢方は中医学の中に包括されるべきものである、ということである。さもなければ、日本の伝統医学は東洋医学における異端児のまま、更には現実に見られるように西洋医学化という邪道に陥り、いよいよ本質を忘れた似非東洋医学に堕するばかりとなろう。
 日本の漢方も本来あるべき中医学の一部として、中医学の基礎理論を持つべきであり、上記に述べた中医学における「異病同治」の概念を深く追及する足掛かりとする為にも、是非とも必要なことのように思われる。

         「異病同治」を追及する意義

 「異病同治」の概念を明確にして行くことの意義は、「病機体系」を発展的に整理し、中医学的な病名を特定できないような複雑な難治性疾患の克服に、多くの解決の糸口を与えるであろうという点にある。卑近な例では、天麻鈎藤飲加味方によって、一般の本態性高血圧患者ばかりでなく、透析治療寸前の患者の経過を好転させ、あらゆる漢方治療に抵抗を示していたB型肝炎患者を全治に近い状態にまで好転させている最近の私の経験は、この「異病同治」の実践に他ならない。
 また、現在のエキス剤等の既製品については、方剤の種類に不足があるとはいえ、応用範囲が更に拡大されることにもなり、煎薬投与の必要性を多くの点で緩和して呉れることにもなろう。
 更には重大な岐路に立つ日本漢方に、本来あるべき中医学の一部としての基礎理論を付与することになり、東洋医学としての名に恥じない新たな日本漢方として蘇生することにもなろう。

             むすび

 古方派から中医学に鞍替えしてしまった転向組の私には、古方派の欠点も長所も、共によく見えているつもりである。そこで、本音を言わせて戴けば、現状のままでは、日本漢方は基礎理論が乏し過ぎるし、東洋医学と言えるような学問的な論理性も発展性も乏しく、閉塞状態に近い存在であると思っている。と言っても、これまで述べてきたように、長所が全く無い訳ではない。

 ところで、本論で指摘したように、中医学の長い歴史において、不思議におろそかにされてきたと思われる「異病同治」に対する詳細な研究、せっかく仲景が模範を示した《傷寒論》の基本理念である〈臓腑経絡を綱領として病機分析を進める方法〉を基礎として病理の研究を行い、未整理のままの「病機体系」を確立させようとはして来なかった現実。この点については、実は「中医病機治法学」(四川科学技術出版社発行)の総論において、「病機の分析において存在する三つの問題」の中の第二番目の問題として指摘されており、これらの問題定義から生まれた書物が陳潮祖先生の大著「中医病機治法学」なのである。

 従って、拙論の論旨の一部はこの大著の学習に負うものもあるが、管見からすると、更に深く追及し完璧を期す為には、日本の古方派の思想の中にヒントが隠されていると思うのである。
 古方派の行う臨床例の中医学的な解読を行うことが出来なければ、中医学もまだまだ不完全なものと言わざるを得ないことになろう。
 逆に、このことが可能なものであるなら、「異病同治」の概念を更に明確化することに繋がり、「中医病機体系」を更に充実させる為の一つの足掛かりとなるに違いない。

 同時に、経方が中心となっているエキス剤にも応用範囲が更に拡がり、エキス剤が中医学と日本漢方の接点となることも指摘したかったのである。 かくして、東洋医学の基礎概念の欠落が顕著な日本漢方の主流である古方派漢方も、本来あるべき中医学の一部として、真の東洋医学の位置へ復帰することが出来ると思うのである。
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posted by ヒゲ薬剤師 at 07:39| 山口 ☀| 中医漢方薬学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月01日

柴胡が欠ける日本の竜胆瀉肝湯について

竜胆瀉肝湯(りゅうたんしゃかんとう)

             村田漢方堂薬局 村田恭介

 本方は、「肝・胆・三焦の実火で湿熱内盛」に対する方剤であり、

@上・中部の肝火(肝胆実火上擾)に対する効能と、

A下部の肝熱(肝胆湿熱下注)に対する効能

 の二種類に分類することが出来る。

 @は、肝胆の実火の上擾による頭痛(頭部の脹痛を含む)・眩暈・目が充血し腫脹と疼痛を伴う・難聴・耳の腫脹・胸脇部の脹痛など。

 Aは、肝胆の湿熱下注による小便が出渋って痛む・陰部の腫脹・陰部の掻痒・悪臭を伴う粘稠な帯下・舌質は紅・舌苔は黄・脉は弦数で力があるなど。

 臨床応用としては、自律神経失調症・偏頭痛・高血圧・頭部の湿疹・急性結膜炎・虹彩毛様体炎・緑内障・急性鼻炎・鼻前庭および外耳道癤・急性中耳炎・急性黄疸性肝炎・急性胆嚢炎・急性腎盂腎炎・急性虫垂炎・膀胱炎・尿道炎・前立腺炎・急性骨盤内炎症(急性内性器炎)・膣炎・睾丸炎・副睾丸炎・鼠径リンパ腺炎・帯状疱疹・ベーチェット病・湿疹およびアトピー性皮膚炎など枚挙に遑がない。

 上記以外の各種の疾患でも、「肝胆三焦実火・湿熱内盛」という病機の範疇に属する限りは、極めて広範囲な領域の各種疾病に応用が可能である。各種の急性感染症・皮膚疾患・眼科疾患・内分泌系疾患・泌尿生殖器系疾患・耳鼻咽喉科疾患のみならず、各種の出血性疾患や血液系疾患にまで応用可能な方剤であり、肝胆実火に対する最も代表的な方剤である。

 なお、日本国内で製造販売されている竜胆瀉肝湯エキス製剤は、出典が異なるため「柴胡」の配合が欠けているので、注意が必要である

 以上、私見に加えて、
 @潮祖先生の『中医治法与方剤 第三版』(人民衛生出版社)
 A方文賢主編『中医名方臨証秘用』(中国中医薬出版社)
 B王元武・赤堀幸雄共著『方義図解 臨床中医方剤』(医歯薬出版)
 の三冊を参考にさせて頂いた。
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ラベル:竜胆瀉肝湯
posted by ヒゲ薬剤師 at 08:16| 山口 ☁| 基本方剤の考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする