中国古代の陰陽五行学説を構造主義科学として理解することから見えてくる中西医結合の方向性を論じたつもりだが、フランスのポストモダニストたち、とりわけミッシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学の実体を知っていたなら、西洋医学は大きく変わっていたであろうと思われるのである。
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中医学に西洋医学を吸収合併すべし 村田恭介著
構造主義科学の論者、池田清彦氏(山梨大学教育学部教授)の諸論『構造主義生物学とは何か』『構造主義と進化論』『構造主義科学論の冒険』などを拝読して、村田流に理解したところでは、おおよそ次のようである。
科学とは現象間の関係記述である。つまり、科学とは変転する現象間の関係を、なんらかの不変の同一性(構造・形式・公理など)によって記述しようという営為である。
したがって、あらゆる科学理論というのは構造(構造・形式・公理など)という不変の同一性によって、現象という変なるものを変換し体系化したのもである。
それゆえ、最終的に正しい究極の理論というものはあり得ず、より多くの現象を説明できる理論が、より有効な理論と言えるだけであり、背反する二つの理論が同じくらい有効なときでも、必ずどちらかの理論が間違っている、などということは決して出来ない。
この二つの背反する理論の具体的な例としては、取りも直さず西洋医学と東洋医学の対比が典型的であり、西洋医学理論と中医学理論を比較すればおのずと明白である。両者における病態観の相違を検討すれば、容易に察することが出来る筈である。陰陽五行学説にもとづく中医学理論そのものがすでに現象間の関係記述という構造主義的な理論構成をなしているだけに、医学理論における極めてユニークな科学理論として、再認識してしかるべきであろう。
けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造主義的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては(ミクロ的にはともかく)、マクロ的には構造主義的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は実際のところ、むしろ「非科学的」であると言われても反駁出来ないのではないだろうか。
中医学においては、陰陽五行学説という人体観・整体観が基本原理となっており、これにもとづく中医学理論は、よりハイレベルな構造法則として常に進歩・発展していく必要がある。
また、中医学における弁証論治では、西洋医学に当たる診断部分が「弁証」であり、四診によって認識される「一連の症候」にもとづいて把握される病機(疾病の本質)≒証候名が、その患者の疾病構造を示す病名となる。
一方、西洋医学においては全体系の原理となる陰陽五行学説のような構造論的観念が欠如しているために、ある特定の患者の診断において、自他覚症状を含めた各種諸検査にもとづいて導き出された診断名(病名)は、その疾病構造を示すものとはなり得ていない。つまり、西洋医学理論は統一的な構造法則としての文法が不完全であるために、西洋医学における病名は、構造分析によって導き出される「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない訳である。
それゆえ、中医学に西洋医学を吸収合併させ、西洋医学の特色である諸検査を有効に活用する方向こそが、臨床医学という現実に即した今後の新しい医学の方向であると思えてならないのである。
とは言え、小論の目的は我田引水的に中医学が完全無欠であると思い上がった議論を展開しているものではなく、あくまで構造主義科学論の立場から見ると、中医学理論およびその原理である「陰陽五行学説」そのものが、一つの立派な科学理論であるという証明と同時に、その視点から観察すれば、西洋医学においてさえ全体観という視点に立てば、非科学性が見えて来ることを強調しておきたいのである。
のみならず、最も重要なことは、中医学という西洋医学とはかなり異質な医学において、ミクロ的には高度な科学性を有する西洋医学に、構造論的に見てかなり完成度の高い中医学を結合する視点を持っても良いのではないだろうか。
科学的な理論体系として既に完成度の高い中医学に、マクロ的には完成度が低く、全体観からすればかなり非科学的でさえある西洋医学とを合併させることこそ、疾病の本質をよりよく把握し、疾病治療を最終目的とする臨床医学の要求に応え得る、より優れた医学・薬学が創造される道ではないかと愚考するのである。
続きは⇒(2)中西医結合への道―脾胃を例として―
ラベル:中西医結合