ミシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学を知っていたなら
村田恭介著
フランスのミシェル・フーコーの著作『臨床医学の誕生』(みすず書房)や、ロラン・バルトの『記号学と医学』(みすず書房発行の『記号学の冒険』中の論文)などで行われた西洋医学に対する構造分析は、極めて示唆に富むものではあるが、整体観の欠如した西洋医学が対象であっただけに、不満足な成果しか得られていないように思われる。
たとえば、ロラン・バルトが『記号学と医学』の中では、次のように述べている。
徴候学(セミオロジー)と名のついた書物を見れば、医学的な記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)のいくつかの原理を容易に引きだすことができるだろうと思っていた。ところが、そうした書物は、私に何も教えてはくれなかった。
さらに、バルトもフーコーも、
病気を読み取るということは、病気に名前をつけることなのである。
と指摘しているが、西洋医学的な病名=診断名を示すことで、果たして十分に「疾病の本質」が読み取られていることになるのだろうか。病名が把握できたとしても、対症療法は別にして、それが臨床的治療に直結出来ないことが多いのが、西洋医学の慢性疾患に対する弱みでもあることは、誰しも否定しないことと思われる。奇しくもそのことを先ほどのロラン・バルトの口から嘆きの言葉として吐き出されている通りである。
一方、中医学においては、病気を読み取るということは「病機を把握すること」であり、病機は徴候(セミオロジー=一連の症候)にもとづいて把握され、病機(≒証候名)を正確に把握できれば、治療方剤もおのずと決定され、治療効果も比較的良好なことが多い。このように、中医学では臨床医学としての治療実践が、病態認識に連動して行えるように体系化されているのである。
ロラン・バルトは、1972年に発表した前述の『記号学と医学』において、
今日の医学は、今もなお本当に記号学的=徴候学的なものであろうか?
と、西洋医学への大いなる問いかけを残しているが、それから32年後の今日、飛躍的に進歩・高度化した現在の西洋医学にとっても、極めて意味深長な筈である。
それにしても、フーコーやバルトがさらに中医学をも対象として、記号学=徴候学〔症候群≒一連の症候=証候 ⇒ 証候名(病機名)≒病機〕を研究していたなら、きっと「中西医結合」の素晴らしいヒントを提供してくれていたに違いない。当時では時代の制約上、彼等が中医学を知る由もなかったのだろう。現在ではフランス国内でも中医学の学習熱が日本以上に盛んであるらしい。フーコーやバルトの後継者たちが、西洋医学と中医学の融合を目指した臨床医学の構造分析の研究が、既になされつつあるのではないかと、密かに期待しているところである。
続きは⇒ (5)ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは中医学における病機(≒証候名)
たまには、応援のクリックお願いします!⇒
posted by ヒゲジジイ at 00:00| 山口 ☀|
中医学と西洋医学『中西医結合への道』
|

|