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禅用語に「啐啄同時(そったくどうじ)」(碧巖録、第七則の評唱中の一句)という言葉があるが、まさに雷に打たれたような衝撃を受けることになる書物との出会いは、昨年(1987年頃)の和漢薬同好会に出席の折の書籍展示場であった。
それは、まだ出版されたばかりの張瓏英先生が書かれた『臨床中医学概論』である。
この書物によって、これまでの迷いが完全に払拭され、過去の中医学の乱雑な学習の細切れの数々が一気につながり、有機的な統一と全体観の把握をもたらせてくれた。
中国語の原書や翻訳書にはない、中医学修得のコツと心得が随所に書かれており、優れた表現力のお陰で、極めて得難い「頓悟」をもたらせてくれたのであった。
加えて、第一章の「中医学への誘い」については、迷える学習者にとって、どれほどの励みになるか計り知れない。
中医学の全体が有機的に把握されて来ると、今後の学習すべき方針が確実に定まってくる。迷いも完全に断ち切られ、中医薬学の偉大さが判然と分ってくる。
そして相対的に、長年親しんできた日本漢方がいよいよ色褪せて来るのであった。
日々の仕事においては、日本流をやっていた頃のやり切れない不安は殆ど消失する。合理的で科学性のある基本理論を基に、ちょうど沢山の数学の基本公式を使って複雑な応用問題を解くことに似ており、創造的で基本理論にしっかりと支えられた自信のある仕事ができる。
基本知識を名実共に修得すれば、自らも新たな基本公式を生み出すことも可能で、しかもこの多くの基本公式を応用して新たな難病を解決する糸口を論理的に追究し開発することが可能となる。
理論と現実がピッタリと一致する見事な合理性と科学性によって、将来は西洋医学よりも優位な立場から、この日本国において中西医結合を可能にし、新たな素晴らしい医学薬学が創造されることが十分に予測されて来る。
「中医学は理論が立派でも、実践面では日本流ほどには効果がない」
と言われる人は、中医学をまだまだ生齧りの状態である証拠であろう。
「中医学は理論があまりにも整然としすぎ、きっぱりと割り切っているが、現実の病人はそれほど甘くはない」
との発言も全く空しい誤解であり、それこそ中医学を甘く見すぎているのである。
さらには、
「中医学は日本では使われない生薬ばかりが多く、中草薬が手に入りにくい日本では非現実的である」
「中医学を実際に行うとしたら、煎薬を中心にしなければならない。日本の現状では無理がありすぎるのではないか」
などの疑問は、過去、私自身が長い間の疑問と悩みでもあったが、{中医基礎学}{中草薬学}{方剤学}を基本的、有機的に理解すると、殆ど考える必要のない問題であった。
五年前(平成18年からは23年前)くらい前までは、私自身、中草薬を色々と盛んに仕入れて煎じ薬中心の仕事ばかりをしていたが、中医薬学の全体と本質が見えて来ると、何も煎薬や変わった中草薬が不可欠とは限らず、エキス剤でもかなり自由に操れることが分ってくる。
相当な複雑な病態でない限りは(と書いているが、平成18年現在では相当複雑な病態こそインスタント漢方を有機的に組み合わせたほうが臨機応変の配合変化を行えて却って便利であると考えている!)インスタント漢方を自由に操って応用することはそれほど困難ではない。
この辺は大変な誤解があるもので、方剤単位の考察ばかりが主体の日本漢方とは異なって、とりわけ中草薬学の学習が物を言う。(中薬学知識が深ければ、いくらでも各方剤に含まれる薬物を利用して代用する能力が養われるということ。)
中医薬学の本質を把握すれば、かなり融通無碍な対応が可能になることは間違いないが、但し、「臓腑弁証」や「病邪弁証」などを省略して安易に簡略化してシステム化した似非中医学理論を学習すると、本質を忘れた迷路に迷い込んでしまうので、この点は特に注意が必要であると思われる。
続きは⇒(5)日本漢方のどこがおかしいか
ラベル:中医漢方薬学