さいわい1993年に月刊「和漢薬」誌において、ヒゲ爺による訳注がある。〔・・・〕の記載はすべて訳者による注釈である。
●治法と方剤の関係
陳潮祖著 村田恭介訳注
方剤と治法の関係を検討する前に、中医学による治療では単味の薬物を用いず、複数の薬物を組み合わせた方剤を使用する理由について、解明しておく必要がある。
中医学理論は二つの整体観の基礎の上に成り立っており、まさにこのことによって様々な整体療法が生み出されたのである。中医学では、人体は一つの有機的な整体であり、各臓は独立した系統でありながら、五臓間は緊密に連繋する協同関係があり、五臓の機能活動の物質的基礎である気血津精の生化輸泄・昇降出入も、五臓の協同作用によって完成されるという認識にもとづき、人体自身における整体観が形成されている。
中医学ではまた、人は自然環境の一員であり、自然を離れて生存することはできず、四季の気候の突然の変化は絶えず人体に影響を与え、自然界の発病因子となる物質も絶えず人体に危害を加えるという認識にもとづき、天人相応の整体観が形成されている。
このような内外環境における整体観は、全体の局面にもとづき、整体療法を重視する必要性を示唆するものである。
それゆえ、どのような疾病の治療においても、外界の気候と発病因子となる物質が人に与える影響を考慮して、発病の原因を取り除くとともに、人体自身の機能失調と基礎物質の盈虚通滞の状態を考慮して、臓腑機能の調整と気血津液の疏通や補充を行う必要性を認識することができる。
このように考えると、大多数の薬物は上述の三種類の効能〔@病因の除去・A臓腑機能の調整・B気血津液の疏通や補充〕を併せ持ってはいないので、何種類もの薬物を選んで方剤を組み立ててはじめて、それぞれの薬物の協同作用により、三種類の効能を発揮させることができるのである。
これが中医学では方剤による治療を必要とする基本的な理由であるが、このように単味の薬物による治療から、方剤による治療への変化は、経験から発展して理論の構築に到る一大飛躍であった。
方剤による治療では、病状にもとづいて病機を分析し、病機にもとづいて治法を考案し、治法にもとづいて病状に即した方剤を組み立てる必要がある。それゆえ、治法と方剤の関係を研究することは必要不可欠なのである。
治法と方剤には四方向の関係があり、臨床治療・理論研究・方剤学書の編集などの各方面で見受けられる。
一、依法立方〔治法にもとづいて方剤を組み立てる〕
依法立方は、弁証論治を行うときの、治法と方剤の依存関係を指す。
方剤は薬物で構成されるが、恣意的に集めるのではなく、治法にもとづき、適切な薬物を選択して処方される。これがよく口にされる「依法立方」である。
治法は方剤を決定する上での理論的根拠であり、方剤は治法の具体化である。つまり、方剤は治法の具現であり、治法は方剤の神髄である。治法があって方剤がなければ、治法は漠然としたものとなり、治法が反映された方剤があってはじめて、治法は有形の実体を伴うことができるのである。方剤は治法をよりどころとし、依法立方によってはじめて治法に適合した方剤となる。それゆえ、「方はすなわちこれ法であり、法はすなわちこれ方である」〔方剤は治法を体現し、治法にもとづいて方剤が生まれる〕ので、二者は不可分の関係にある。
たとえば、風寒を感受して悪寒・発熱・頭痛を生じるのは風寒束表の証であるから、辛温解表法によってはじめて毛竅を宣通して表証を解除できる。この辛温解表法は方剤を決定する理論的根拠であり、治法にもとづいて処方されて以後は、その方剤が辛温解表法の化身〔具体的な形体〕となるのである。
二、依法用方〔治法にもとづいて方剤を用いる〕
依法用方は、弁証論治を行うときの、治法と方剤の従属関係を指す。
依法立方では、しっかりとした理論的な基礎と実践的な経験があってはじめて名実相伴うのであり、そうでなければ頭痛に対して頭部に治療を施すような対症療法に堕し兼ねないが、〔このようにレベルの高い依法立方が行えなくても〕、治法にもとづいて〔先人の制定した既成の〕方剤を使用できるようになれば、すでに中工のレベルに到達したものといえるのである。
現存する古方〔既成の方剤〕は、すべて先人の実践経験の中から生み出されたものであり、歴代の医家の験証を経て、治療効果が確認されているものばかりであるから、治法にもとづいて方剤を選択できれば、古人を参考にして回り道を避けることができる。それゆえ、依法用方はかなり実用価値が高いものといえ、中医学教育における方剤学講座を開設する目的もここにある。
たとえば、大承気湯は苦寒瀉下法を体現しており、熱結による便秘に適応する名方であるが、臨床上では熱結便秘という診断さえあれば、対応する苦寒瀉下という治法にもとずき、容易に大承気湯を選択することができ、方剤の組み立てにあれこれ思案して苦労する必要がなくなる。
このように、依法用方〔依法選方〕を行うことによって、回り道を避けることができるのである。
三、依法釈方〔治法にもとづいて方剤を解釈する〕
依法釈方は、方意を分析するときの、治法と方剤の相互関係を指す。
現在、方意の分析において二種類の異なる考え方がある。一つは「以薬釈方」〔薬物の方向から方剤を解釈する〕と、もう一つは標題に掲げた「依法釈方」である。
まず、以薬釈方について言えば、方中の薬物の効能と君臣佐使の配合関係を中心に解釈するものであり、病機と治法を分析することがあっても詳しくないことが多く、これを持論とする立場では、方証〔方剤の適応証〕の分析は方剤学の重点ではないとされている。
依法釈方では、まずその方剤が適応する症候の病機を分析解明したのちに、治法にもとづいて方剤を解釈してはじめて、薬物の効能を病機と治法に結びつけて、その方剤が組み立てられた理由を正確に理解することができるとする立場である。古方はすべて歴代の医家が理と法にもとづいて処方したものであるから、理法を関連づけた方意の解釈によってはじめて、立方時の主旨に沿えるという訳である。
以上二つの考え方において、筆者は依法釈方が以薬釈方よりも優れていると考えている。調気疏肝の四逆散を例にすると、原著では「少陰病、四逆し、その人あるいは咳し、あるいは悸し、あるいは小便不利し、あるいは腹中痛み、あるいは泄利下重するとき」に適応するとされ、四逆散の適応症を「あるいは」として五つの症状を挙げているが、これらのどの症状も各臓それぞれの病理変化が反映したものであり、肝気鬱結によって筋膜の柔和を失ったため、気血津液が失調して五臓の病変を誘発したときに本方が適応する、と解釈できる。この場合に、薬物の効能と君臣佐使だけで方意を分析すると、腹痛に対する説明はできても、その他の諸症状に対する適応を説明できそうもない。
このように、依法釈方によってはじめて古方の神髄を把握し、選薬処方の奥義をつかみ取ることができ、また、方剤が体現する治法を知ってはじめて、治法にもとづいて方剤を選択することができるのである。
四、依法類方〔治法にもとづいて方剤を分類する〕
依法類方は、方剤学書を編纂するときの、治法と方剤の相互関係を指す。
古方は何万以上もの数にのぼり、貴重な遺産である。医家の方剤研究により、これら多数の古方が必要性に応じて、臨床上の検索に便利なように分類されている。現存する方書を概観すると、おおよそ以証類方〔症候による分類〕と依法類方〔治法による分類〕という二種類の分類方法がとられており、二者それぞれに特色がある。
以証類方は、適応する症候にもとづく分類方法であり、病名診断後に症候にもとづいて方剤を選択するときに便利である。この種の分類方法は簡明にして要を得ており、中医学の専門家でなくとも検索しやすく、ときにはピッタリと的中するなどの特徴があるが、分類によって理論を高め、同類方剤の配合法則を総括するには、依法類方のほうが優れている。
現在の多くの方剤学書は、〔第二段階の〕治療の大法にもとづく分類により、同類方剤の大体の用途と共通性が示されている点が優れているが、惜しいことに段階がこれ以上高すぎると、病機にもとづく第三段階の治法においては、〔第二段階の治療の大法にもとづくという〕分類上の束縛を受けているために、具体的に深く掘り下げにくいものとなっている。〔治法の四段階については、黄帝・岐伯らの《内経》の時代から現在までに四段階の発展過程を形成してきた。
第一段階は、《内経》などで打ち出された治療原則。
第二段階は、汪昂と程鐘齢らによって形成された治療の大法。
第三段階は、葉天士らによって代表される、病機に対応して打ち出された小法。
第四段階は、呉鞠通・雷少逸・兪根初らによって代表される、方剤ごとに明示される治法。〕
それゆえ筆者は、ある病機に対して制定された同類の古方を研究し、共通性を示して治法の原理と処方基準〔配合法則〕を追求すれば、中医治法学を深めて臨床実践に貢献し、数多(あまた)の古方をよりよく人類の健康に役立てることができると考え、これらを研究課題としている訳である。〔その一定の成果をまとめたものが、本書「中医病機治法学」である。〕
●日本漢方の随証治療の精神と「依法用方」
一において、依法立方がいかに高度な知識と技術を要求されるものであるかを知り、二において、弁証論治はなにも依法立方だけの世界ではなく、既成方剤に依存する依法用方こそが弁証論治の基礎であり出発点でもあり、方剤の組み立てにあれこれ思案して苦労する必要がないことを知る。
つまりは、日本漢方の随証治療を一歩進めて「随証治法」にもとづいて方剤を選択することが依法用方なのであり、日本漢方の随証治療による豊富な経験を理論に高めるためには、弁証論治の基礎であり入門篇でもある「依法用方」という次のステップに進むべき必然性が認識されるのである。
たとい、依法立方が自在に行えるような高度な知識と技術がなくとも、「治法にもとづいて先人の制定した既成方剤を使用できるようになれば、すでに中工のレベルに到達したものといえる」のであるから、中医学の初心者は依法用方を徹底的にマスターすべきであって、ヘタに依法立方を行うべきではない、との警告として理解することもできる。
このように見てくると、「既成方剤に依存した施治は中医学ではない」「中医学は煎薬でなければ行えない」などの珍奇な発言が、如何に根拠のないものであるかが分かる。
要は、中医学理論を如何に臨床上で有機的に活用できるかが問題であって、依法立方だけが弁証論治という訳ではないのである。それゆえ、中医学の初心者が正確な依法用方が行えるようにと、「依法釈方」「依法類方」にもとづいて著述された本書「中医病機治法学」の実用的価値もここにある。
さらに言えば、既成方剤に依存する「依法用方」の中には、日本漢方の随証治療と中医学の弁証論治との接点が内在しており、治法にもとづいて方剤を解釈する「依法釈方」の精神は、既に制定された方剤を各薬物の効能と君臣佐使の配合関係によって捉えるのではなく、複合の飛躍により方剤自身の新たな効能を発揮するものと捉える点において、日本漢方の随証治療の精神と一脈相通じていることも認識しておく必要がある。
某証(葛根湯証など)の確定根拠となる一連の症候の把握に全力を傾ける随証治療の世界では、傷寒・金匱の方剤を主体に一般的な疾病から難治性の疾患まで、少ない方剤を駆使してかなりな成果が上げられている。これらの豊富な経験を中医学の立場から詳細に分析すれば、既成方剤における新たな「病機と治法」が発掘される可能性があり、依法用方や依法立方のレベルの向上に、多少とも貢献できる可能性が高い。
たとえば、訳者の葛根湯を用いた随証投与の経験を述べると、めまいやふらつきを主訴とする眩暈証患者で、多少とも寒冷や気温の落差に影響を受けやすい「項背部の凝り」を伴うものに対して、西洋医学的な病名診断とは全く無関係に著効を得たことが多い。その他にも先人の随証投与による葛根湯の膨大な治験があるが、これらを単なる経験だけに終らせず、葛根湯が適応した症候を整理して詳細に病機を分析・検討する必要がある。同様に、各方剤の随証投与による膨大な治験を概括して理論に高めれば、中医方剤学の発展に貢献する可能性が強いのである。
本書によって依法用方を学習すれば、依法立方に必要な知識が得られる構成となっているので、必要に応じて一定レベルの依法立方が行えるようになるが、同時に日本漢方の随証治療の精神に学ぶことも忘れてはならないのである。
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ラベル:随証治療