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2018年11月07日

『中西医結合への道』第5章:ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは、中医学における病機(≒証候名)であった!

ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは、中医学における病機(≒証候名)であった!
                    村田恭介著

 弁証論治における弁証の世界では、四診によって認識される一連の症候にもとづいて把握される「疾病の本質(病機≒証候名)」を構造とみることができる。このときの構造(病機≒証候名)は、要素集合(一連の症候)に構造法則(中医学理論という文法)を用いて解読する仕組みになっている。つまり、

 構造(病機<疾病の本質>)=要素集合(一連の症候)+構造法則(中医学理論

 と定義することができる。〔勁草書房発行・上野千鶴子著『構造主義の冒険』の15頁参照〕

 けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造論的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては―ミクロ的にはともかく―マクロ的には構造論的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は非科学的と言われてもしかたがないのである。したがって、現在の西洋医学においては、

 構造(病名<疾病の本質>)=要素集合(諸検査を含めた自他各症状)+構造法則(西洋医学理論)

 という関係式は成立し得ていない。

 つまり、西洋医学には全体系を支配する構造論的観念が欠如しているために、西洋医学理論は構造法則としての文法が不完全なものであり、それゆえに西洋医学における病名は、構造分析によって導き出される「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない。ロラン・バルトが嘆かれたのも当然なことである!

 それゆえにこそ、整体観の確立した中医学に、西洋医学を吸収合併させるべきであろうと、村田恭介は提唱するのである。ロラン・バルトやミシェル・フーコー等が、中医学を村田レベルにでも知っていたら、きっともっとスケールの大きなことを提案したに違いないのである。

 なお、中医学における記号学的な考察が別ボタンの『村田恭介主要論文集』の「No.012 脾湿についての考察」の中の一部にあるので、これをご参照願いたい。これをロラン・バルトが見たら、大喜びされたに違いない。

●「記号学的な考察」>>>⇒「病機の呼称における記号学的な問題点
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2018年11月06日

『中西医結合への道』第4章:記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)

ミシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学を知っていたなら
村田恭介著

 フランスのミシェル・フーコーの著作『臨床医学の誕生』(みすず書房)や、ロラン・バルトの『記号学と医学』(みすず書房発行の『記号学の冒険』中の論文)などで行われた西洋医学に対する構造分析は、極めて示唆に富むものではあるが、整体観の欠如した西洋医学が対象であっただけに、不満足な成果しか得られていないように思われる。

 たとえば、ロラン・バルトが『記号学と医学』の中では、次のように述べている。

 徴候学(セミオロジー)と名のついた書物を見れば、医学的な記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)のいくつかの原理を容易に引きだすことができるだろうと思っていた。ところが、そうした書物は、私に何も教えてはくれなかった。

 さらに、バルトもフーコーも、

 病気を読み取るということは、病気に名前をつけることなのである。

 と指摘しているが、西洋医学的な病名=診断名を示すことで、果たして十分に「疾病の本質」が読み取られていることになるのだろうか。病名が把握できたとしても、対症療法は別にして、それが臨床的治療に直結出来ないことが多いのが、西洋医学の慢性疾患に対する弱みでもあることは、誰しも否定しないことと思われる。奇しくもそのことを先ほどのロラン・バルトの口から嘆きの言葉として吐き出されている通りである。

  一方、中医学においては、病気を読み取るということは「病機を把握すること」であり、病機は徴候(セミオロジー=一連の症候)にもとづいて把握され、病機(≒証候名)を正確に把握できれば、治療方剤もおのずと決定され、治療効果も比較的良好なことが多い。このように、中医学では臨床医学としての治療実践が、病態認識に連動して行えるように体系化されているのである。

   ロラン・バルトは、1972年に発表した前述の『記号学と医学』において、

 今日の医学は、今もなお本当に記号学的=徴候学的なものであろうか?

 と、西洋医学への大いなる問いかけを残しているが、それから32年後の今日、飛躍的に進歩・高度化した現在の西洋医学にとっても、極めて意味深長な筈である。

 それにしても、フーコーやバルトがさらに中医学をも対象として、記号学=徴候学〔症候群≒一連の症候=証候 ⇒ 証候名(病機名)≒病機〕を研究していたなら、きっと「中西医結合」の素晴らしいヒントを提供してくれていたに違いない。当時では時代の制約上、彼等が中医学を知る由もなかったのだろう。現在ではフランス国内でも中医学の学習熱が日本以上に盛んであるらしい。フーコーやバルトの後継者たちが、西洋医学と中医学の融合を目指した臨床医学の構造分析の研究が、既になされつつあるのではないかと、密かに期待しているところである。

続きは⇒ (5)ロラン・バルトが期待していた徴候学(セミオロジー)とは中医学における病機(≒証候名)
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2018年11月05日

『中西医結合への道』第3章:中西医結合への道

中西医結合への道

村田恭介著

 五臓間の整体関係については、五臓の組織構造は連繋して一体化し、機能活動は相互に強調し合っているので、五臓を関連付けて分析し、整体関係に注意してはじめて症状に対する認識を見誤ることなく有効な施治を行うことができる。それゆえ、他臓の疾病に対する脾胃の論治や、脾胃の疾病に対する他臓の論治などのことは、実際の臨床では日常茶飯事である。

 このような五臓の整体関係を重視する中医学は、スイスの言語学者ソシュールを先駆とする「構造論」的な分析方法と見事なほどに一致していると思われる。つまり、言語の様相を体系的にとらえ、各言語間の機能的連関を明らかにして言語の法則を追究する「構造言語学」を主要なモデルとする科学的な分析方法、すなわち「構造主義」を立脚点とする方法は、中国では古代から当然のように行われていたのである。中国の歴代の医家に言わせれば「なにをいまさら」という冷ややかな言葉が発せられるに違いない。

 フランスの高名な精神科医ジャック・ラカンは、ソシュールの言語学をモデルとして、「無意識は言語のように構造化している」という命題を出発点としたが、「生体内の生命活動も言語のように構造化されている」と言えるのである。と言うよりも、これは順序が逆で、もともと「人体の生命活動は構造化されたもの」であるがゆえに、その生命の宿る人間同士の意思疎通の道具である「言語」が構造化されていて当然であり、それゆえ、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」という命題を出発点にすることが出来たのであろう。

 五臓相関の「陰陽五行学説」は構造主義的な科学理論であり、中医学から見た人体の基本構造は「五行相関にもとづく五臓を頂とした五角形」であり、病態認識の基礎理論となる構造法則は「陰陽五行学説」にほかならない。

 この陰陽五行学説にもとづく「中医学理論」こそは、よりハイレベルな構造法則としてよりきめ細かく綿密化されてあらゆる病態に対応できるように発達・発展していく必要がある。それゆえ、ミクロ的な部分で優れた視野を持つ西洋医学の成果を中医学の不足部分を補うべく、いかに取り入れるべきなのか。

 マクロ的では整体観の乏しさから非科学性を指摘されかねない問題を残しながらも、ミクロ的な部分で高度に発達した西洋医学をより有効に活用すべく、中医学に吸収合併させるという大胆な発想も、以上の考察から少しは理解してもらえるのではないかと愚考するものの、これではまだまだ納得して頂けそうにないので、極め付の思想家二名にご登場願うことにしたい。

続きは⇒ (4)ミシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学を知っていたなら
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ラベル:中西医結合
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2018年11月04日

中医学と西洋医学『中西医結合への道』第2章:中西医結合への道―脾胃を例として―(中医学に西洋医学を吸収合併すべし)

中西医結合への道―脾胃を例として
    中医学に西洋医学を吸収合併すべし  村田恭介著

●脾胃はすべての疾病と関連する

 「脾胃は中土に居す」と言われるように、五臓系統の中で最も中心的な部分である。ところで、小題の「脾胃はすべての疾病と関連する」との表現は、もちろん他蔵についても五臓間の整体関係から同様な表現が可能であることは言うまでもないが、脾胃系統については特に強調しておく必要がある。

 すべての疾病の基本構造は、「気血津精の昇降出入の異常と盈虚通滞」と言え、五臓の生理機能はいずれも気血津精の生化輸泄(生成・輸布・排泄)と関係がある。気血津精に過不足(太過や不及)が生じたときが病態であり、五臓間の相生・相克関係は、気血津精の生化輸泄に直接関与している。

 この疾病の基本構造にもとづいて考察すると、脾胃は中焦に位置して五臓の気機が昇降するための中軸であり、他のすべての臓腑と極めて緊密な関係があるので、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及する。

 また、五臓六腑は機能活動を維持するために、精気血津液を基礎物質として必要としており、脾胃の納運する水穀精微は精気血津液を生成する基本的な源泉であるから、脾胃と精気血津液の摂納・生成・輸布・排泄とは密接な関係がある。それゆえ、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及するのである。

●他臓の病変に脾胃の論治が必要な場合

 眩暈を主訴とする肝病に対して半夏百朮天麻湯が適応するとき、口内炎を主訴とする心病に対して半夏瀉心湯が適応するとき、浮腫を主訴とする腎病に対して分消湯や補気建中湯が適応するときなどがある。

 逆に、脾胃の疾病に他臓の論治が必要な場合は、嘔吐を主訴とする疾病に対して、腎系統の治療薬である五苓散が適応するときや肝胆系統の治療薬である小柴胡湯が適応するとき、下痢を主訴とする疾病に対して腎系統の治療薬である真武湯や五苓散が適応する時などがある。

続きは⇒ (3)中西医結合への道
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ラベル:脾胃
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2018年11月03日

中医学と西洋医学『中西医結合への道』 第1章:医学領域における「科学」としての中医学(中医学に西洋医学を吸収合併すべし)

 2007年頃に書いた拙論だが、長文なので5章に分けて転載
 中国古代の陰陽五行学説を構造主義科学として理解することから見えてくる中西医結合の方向性を論じたつもりだが、フランスのポストモダニストたち、とりわけミッシェル・フーコーやロラン・バルトが中医学の実体を知っていたなら、西洋医学は大きく変わっていたであろうと思われるのである。
医学領域における「科学」としての中医学
     中医学に西洋医学を吸収合併すべし  村田恭介著

 構造主義科学の論者、池田清彦氏(山梨大学教育学部教授)の諸論『構造主義生物学とは何か』『構造主義と進化論』『構造主義科学論の冒険』などを拝読して、村田流に理解したところでは、おおよそ次のようである。

 科学とは現象間の関係記述である。つまり、科学とは変転する現象間の関係を、なんらかの不変の同一性(構造・形式・公理など)によって記述しようという営為である。

 したがって、あらゆる科学理論というのは構造(構造・形式・公理など)という不変の同一性によって、現象という変なるものを変換し体系化したのもである。

 それゆえ、最終的に正しい究極の理論というものはあり得ず、より多くの現象を説明できる理論が、より有効な理論と言えるだけであり、背反する二つの理論が同じくらい有効なときでも、必ずどちらかの理論が間違っている、などということは決して出来ない。

 この二つの背反する理論の具体的な例としては、取りも直さず西洋医学と東洋医学の対比が典型的であり、西洋医学理論と中医学理論を比較すればおのずと明白である。両者における病態観の相違を検討すれば、容易に察することが出来る筈である。陰陽五行学説にもとづく中医学理論そのものがすでに現象間の関係記述という構造主義的な理論構成をなしているだけに、医学理論における極めてユニークな科学理論として、再認識してしかるべきであろう

 けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造主義的な視点が既に確立しているのに比べ、西洋医学においては(ミクロ的にはともかく)、マクロ的には構造主義的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は実際のところ、むしろ「非科学的」であると言われても反駁出来ないのではないだろうか。

 中医学においては、陰陽五行学説という人体観・整体観が基本原理となっており、これにもとづく中医学理論は、よりハイレベルな構造法則として常に進歩・発展していく必要がある。

 また、中医学における弁証論治では、西洋医学に当たる診断部分が「弁証」であり、四診によって認識される「一連の症候」にもとづいて把握される病機(疾病の本質)≒証候名が、その患者の疾病構造を示す病名となる。

 一方、西洋医学においては全体系の原理となる陰陽五行学説のような構造論的観念が欠如しているために、ある特定の患者の診断において、自他覚症状を含めた各種諸検査にもとづいて導き出された診断名(病名)は、その疾病構造を示すものとはなり得ていない。つまり、西洋医学理論は統一的な構造法則としての文法が不完全であるために、西洋医学における病名は、構造分析によって導き出される「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない訳である。

 それゆえ、中医学に西洋医学を吸収合併させ、西洋医学の特色である諸検査を有効に活用する方向こそが、臨床医学という現実に即した今後の新しい医学の方向であると思えてならないのである。

 とは言え、小論の目的は我田引水的に中医学が完全無欠であると思い上がった議論を展開しているものではなく、あくまで構造主義科学論の立場から見ると、中医学理論およびその原理である「陰陽五行学説」そのものが、一つの立派な科学理論であるという証明と同時に、その視点から観察すれば、西洋医学においてさえ全体観という視点に立てば、非科学性が見えて来ることを強調しておきたいのである。

 のみならず、最も重要なことは、中医学という西洋医学とはかなり異質な医学において、ミクロ的には高度な科学性を有する西洋医学に、構造論的に見てかなり完成度の高い中医学を結合する視点を持っても良いのではないだろうか。

 科学的な理論体系として既に完成度の高い中医学に、マクロ的には完成度が低く、全体観からすればかなり非科学的でさえある西洋医学とを合併させることこそ、疾病の本質をよりよく把握し、疾病治療を最終目的とする臨床医学の要求に応え得る、より優れた医学・薬学が創造される道ではないかと愚考するのである。

続きは⇒(2)中西医結合への道―脾胃を例として―
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ラベル:中西医結合
posted by ヒゲジジイ at 00:00| 山口 ☁| 中医学と西洋医学『中西医結合への道』 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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