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2018年11月26日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(8)おわりに

  (8)おわりに

 中医薬学の本質を知らずして、安易に「前近代的、非学術的である」などと批判するべきでないのと同様に、そのことは日本漢方にも言えることである。

 しかし、私には日本漢方にはどっぷりと浸かって来た経験がある。

 「漢方歴わずか17年の青二才が、しかも薬剤師の分際で」と言われれば身も蓋もないが、日本漢方の将来を純粋な学問的立場から真剣に考えていることでは人後に落ちないつもりである。


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2018年11月25日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(7)中医漢方薬学

  (7)中医漢方薬学

 昨今のように西洋医学畑の人々から好きなようにもて遊ばれ、西洋医学に吸収合併されるくらいなら、日本漢方に比べ遥かにレベルの高い中医学に吸収合併された方がどれほどましなことだろう。

 日本漢方にも中医学よりも優れた点(一部の方剤学や腹診法)があるのだから、そうすることで立派な理論と科学性を持った「中医漢方薬学」が生まれることは間違いないと思われるのである。

 中医薬学の世界は、広大で無限な医学薬学の宝庫であり、将来は西洋医学と対等に、あるいはそれ以上の立場で、この日本においてこそ正しい方向での中西医結合が可能であると思う。この日本の中にも、かなり多くの中医薬学の偉大さを真に理解されている諸先輩方が多いだけに、決してこれは単なる夢に終わるものではないと信じている。

 麻黄湯が表熱実証などという錯誤を改めて、合理的な言語と理論を一日も早く獲得し、同じ東洋世界の仲間と対等に議論ができるレベルに向上するべきではないだろうか。

 日本漢方にもすぐれた治療効果があるのを認めるに吝かではないが、病因や病態の認識の希薄さ、及び治法に対する法則の甘さにおいて、果たして方証相対論による方剤中心のパターン認識の単純な経験医学が、病の根治療法となり得るものかどうか?

 時に対症療法にしかなっていない現実を無視することはできまい。

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2018年11月24日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(6)日本漢方の優れた点

  (6)日本漢方の優れた点

 正直に告白すると、この点については日本漢方の方剤学における些かの体験的な面白い成果以外には、それほどの価値を認める気にはなれない。
 過去、近藤良男先生が本誌(和漢薬誌)347号に発表された「疾医の道を往け!」と題された玉稿の中で、

 「十年か二十年『漢方的』なことに手を出して『漢方の前途がどうだこうだ』とは何ごとかと云いたいのである。」

 とのお言葉は、今も胸に響くのであるが、私にとっては、吉益東洞の偶像は既に崩壊してしまった。

 病因や病態の認識もできず、薬物についての貧弱な認識しか持たない日本漢方が、果たして医学薬学と言えるものかどうか?

 昨今のように西洋医学畑の人々から好きなようにもて遊ばれるのも尤もなことで、合理的な科学性を殆ど持たない日本漢方は、「学」ではなく「術」であるなどと主張していたら、今に西洋医学の中に「吸収合併」されて、消滅してしまうに違いない。

 漢方のベテランの先生ですら、中医学言語や理論を「前近代的、非学術的」などと、訳の分かったような分からないような概念であしらわれる困った世の中である。

 我々日本人は複雑な理論や理屈を好まず、直ぐに単純化したり、自分等の都合の良いように改良(というより改悪)して本質を忘れてしまう悪い習性があるように思われる。

 吉益東洞以来、日本の漢方が如何に本質を見失って来ていたことか。

 吉益東洞の存在は当時の歴史的、地理的、環境的(梅毒が流行した等)な制約の為に、止むを得なかったとしても、いまだにその流れが日本漢方の主流である現実は、何とも不思議と言う他はない。

 基本思想や哲学をおろそかにし、お隣の本場中国での発展を無視し続けてきたツケが、今頃になって回って来たことを自覚するべきだと思うのである。

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2018年11月23日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(5)日本漢方のどこがおかしいか

  (5)日本漢方のどこがおかしいか

 この点については、既に詳しく「中医学と漢方医学」(1989年月刊『和漢薬』誌1月号(通刊428号)巻頭論文)及び、東洞批判を中心に展開した拙文「日本漢方の将来『中医漢方薬学』の提唱」(『漢方の臨床』誌・東亜医学協会創立50周年記念特集号発表論文)で述べているので、是非とも目を通して頂きたいと思う。

 昨年の本誌12月号(1988年『和漢薬』誌・通刊427号)の拙文「遠田先生への反論及び中医学用語の弁護論」における文末において、「東洞批判論」の予告をしておいたが、故あって東亜医学協会創立五十周年記念特別号である前記「漢方の臨床」誌において発表させて頂いた。

 重要な補足としては、東洞流以外の日本漢方のうち、陰陽五行学説等の内経思想を基礎とした流派においても(私自身、一時、深入りしかけた経験から述べると)、同じ中国の古代哲学から出発しながら、その後の中国における発達した成果を参考にすることもなく、いたずらに古代哲学のレベルに留まったまま、その思想や理論を実践に直結して応用することが殆どできない、単なるお飾り的な理論武装の世界のように思われる。

 その点、現代中医薬学は常に理論と実際が直結する方向で発達して来ており、「陰陽五行学説」にしても、妄信的に取り入れている訳ではなく、常に「批判的に継承」している。
 したがって先の遠田先生のように「荒唐無稽」などと極め付けて安易に否定することもなく、無批判に受け入れている訳でもない。

 何億という人口をかかえる中国において、長い年月、臨床実践を繰り返して獲得した豊富な経験と理論知識に基づき弁証法的に打ち立てて来た現代中医薬学と、歴史も浅く少人数で何とか今日まで維持して来た日本漢方の歴史を比較するだけでも、レベルの程が推察できようというものである。

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2018年11月22日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(4)中医学に目覚める

 (4)中医学に目覚める

 禅用語に「啐啄同時(そったくどうじ)」(碧巖録、第七則の評唱中の一句)という言葉があるが、まさに雷に打たれたような衝撃を受けることになる書物との出会いは、昨年(1987年頃)の和漢薬同好会に出席の折の書籍展示場であった。

 それは、まだ出版されたばかりの張瓏英先生が書かれた『臨床中医学概論』である。

 この書物によって、これまでの迷いが完全に払拭され、過去の中医学の乱雑な学習の細切れの数々が一気につながり、有機的な統一と全体観の把握をもたらせてくれた。
 中国語の原書や翻訳書にはない、中医学修得のコツと心得が随所に書かれており、優れた表現力のお陰で、極めて得難い「頓悟」をもたらせてくれたのであった。

 加えて、第一章の「中医学への誘い」については、迷える学習者にとって、どれほどの励みになるか計り知れない。

 中医学の全体が有機的に把握されて来ると、今後の学習すべき方針が確実に定まってくる。迷いも完全に断ち切られ、中医薬学の偉大さが判然と分ってくる。

 そして相対的に、長年親しんできた日本漢方がいよいよ色褪せて来るのであった。

 日々の仕事においては、日本流をやっていた頃のやり切れない不安は殆ど消失する。合理的で科学性のある基本理論を基に、ちょうど沢山の数学の基本公式を使って複雑な応用問題を解くことに似ており、創造的で基本理論にしっかりと支えられた自信のある仕事ができる。

 基本知識を名実共に修得すれば、自らも新たな基本公式を生み出すことも可能で、しかもこの多くの基本公式を応用して新たな難病を解決する糸口を論理的に追究し開発することが可能となる。

 理論と現実がピッタリと一致する見事な合理性と科学性によって、将来は西洋医学よりも優位な立場から、この日本国において中西医結合を可能にし、新たな素晴らしい医学薬学が創造されることが十分に予測されて来る。

 「中医学は理論が立派でも、実践面では日本流ほどには効果がない」
と言われる人は、中医学をまだまだ生齧りの状態である証拠であろう。

 「中医学は理論があまりにも整然としすぎ、きっぱりと割り切っているが、現実の病人はそれほど甘くはない」
 との発言も全く空しい誤解であり、それこそ中医学を甘く見すぎているのである。

 さらには、
 「中医学は日本では使われない生薬ばかりが多く、中草薬が手に入りにくい日本では非現実的である」

 「中医学を実際に行うとしたら、煎薬を中心にしなければならない。日本の現状では無理がありすぎるのではないか」

などの疑問は、過去、私自身が長い間の疑問と悩みでもあったが、{中医基礎学}{中草薬学}{方剤学}を基本的、有機的に理解すると、殆ど考える必要のない問題であった。

 五年前(平成18年からは23年前)くらい前までは、私自身、中草薬を色々と盛んに仕入れて煎じ薬中心の仕事ばかりをしていたが、中医薬学の全体と本質が見えて来ると、何も煎薬や変わった中草薬が不可欠とは限らず、エキス剤でもかなり自由に操れることが分ってくる。

 相当な複雑な病態でない限りは(と書いているが、平成18年現在では相当複雑な病態こそインスタント漢方を有機的に組み合わせたほうが臨機応変の配合変化を行えて却って便利であると考えている!)インスタント漢方を自由に操って応用することはそれほど困難ではない。

 この辺は大変な誤解があるもので、方剤単位の考察ばかりが主体の日本漢方とは異なって、とりわけ中草薬学の学習が物を言う。(中薬学知識が深ければ、いくらでも各方剤に含まれる薬物を利用して代用する能力が養われるということ。

 中医薬学の本質を把握すれば、かなり融通無碍な対応が可能になることは間違いないが、但し、「臓腑弁証」や「病邪弁証」などを省略して安易に簡略化してシステム化した似非中医学理論を学習すると、本質を忘れた迷路に迷い込んでしまうので、この点は特に注意が必要であると思われる。

続きは⇒(5)日本漢方のどこがおかしいか
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2018年11月21日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(3)堕落しかけた頃

  (3)堕落しかけた頃

 方証相対論による日本漢方は自分なりにかなりなレベルまで把握して来た自惚れがあり、これ以上、日本流を学んだところで、大して得ることはないなどと、僭越にも既に日本流の限界を感じてしまっていた。
 このまま安易に自分に妥協してしまって、日本流の閉塞的な方証相対論の世界に舞い戻り、中医薬学の修得を諦めるのか。

 日々の仕事においては、日本流の漢方のみでも、喰うに困ることはないのだからと、堕落の道に陥り始めたようである。
 とうとう、趣味のチヌ釣りに逃避し始め、仕事の方は、安易な日本流でお茶を濁すことでも、ほどほどの仕事にはなる。怠け始めて後、二〜三年は、釣三昧の人生である。

 しかし、それにしても中医学の魅力は捨てがたかったのだが、どうして修得できないのか。複雑な理論を実践に応用する有機的な理解がなされていないことは確かである。
 釣に熱中した初期の頃(5年前頃=平成18年からは22年前)は日本流に逆戻りして投薬していたが、中医薬学の実践に情熱を燃やしていた時の充実感はない。
 おまけに効く効かないに関わらず、常に選薬時の不安がつきまとう。

 理論の乏しい民間療法的な日本漢方のレベルの低さを徹底的に思い知ったのはこの頃であった。
 中医薬学には理論と実際が直結する合理性、及び科学性があるのに、それに引きかえ日本漢方には一体何があろうというのだろうか?

 逃避していたかに思えていた釣りの世界はしかし、自信というものを教えてくれるものでもあった。一番難しいと言われるチヌ(黒鯛)を釣る為に、集中的に海に通い始め、結局は短期間の内に、チヌ釣り歴が数十年のベテランの平均値を、数の上でもサイズの上でも、ほんの数年間で追い越してしまった自身は得がたいものであった。

 中医学のマスターもこれだと悟り、日々の仕事は、時間と労力を消耗する煎じ薬の仕事を減らし、諦めかけていた中医学の基礎理論、中草薬学、及び方剤学の学習を本格的に再開したのである。実践面においては、常に弁証論治の法則に従ってきめ細かな分析を心がけ、体質、病因、病理を認識しての治法の設定。

 これらの実践を常に心がけながら、たとえエキス剤であれ、中医学的考察を繰り返し、安易に日本流で考えないようにつとめる訳であるが、長年の習慣である処方毎のパターン認識漢方を完全には克服することができない未熟さに、歯痒い思いを感ずることもしばしばであった。
 まだまだ中草薬に対する認識の浅さが問題なのであろうと、学習面ではこの分野には特別な力が入った。

 こうして常々中医学的な論理的思考を努力して行けば、書物による学習がそのまま身になって来る。次第に中医学全体が見渡せる感じが掴めかけたものの、もう一つしっかりした全体観を把握するまでには到らない。
 効く効かないに関わらず、選薬時における一抹の不安が拭い切れない。ダラダラと中医薬学の学習を十年以上も続けながら、情けないことであった。

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2018年11月20日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(2)初期の迷い

  (2)初期の迷い

 過去の迷いや煩悶を思い出して記すことは古傷をさらすのに似て、実際のところあまり気のすすむ仕事ではない。いまさらながら、(大袈裟に言えば)この過ぎ去りし無知と蒙昧の日々を忘れ去りたい抑圧気分が邪魔をしてしまう。

 うまく表現できるかどうか自信はないが、自らの立脚点を確立するまでの経緯はそのまま現代日本漢方の問題点を引きずって歩いてきた感が強いのである。

 初期の東洞流にかぶれていた当時、「方証相対論」を信奉していた頃は、先人の口訣や諸先輩方の語著作を頼りに、時に大効を奏する喜びに目が眩んで、無条件に東洞流の古方に憧れていた。

 やがて、陰陽五行学説等の内経思想を基礎としたもう一つの古方派(荒木性次氏や龍野一雄氏など)があることを知ってしばらく深入りしかけたものの、思想や理論が臨床面にあまり直結しない理論武装の世界ではないかと、直ぐに多少の疑問を感じるようになった。
 しかし、当時(十五年前頃=平成18年からは32年前ということになる)手に入れた中国における傷寒論や金匱要略の解説書の内容に、かなりな共通性があるのに驚かされたりもした。

 かくして、東洞流の古方ばかりか、内経思想を基礎とした古方派の学習に並行して、中国で出版される中医学の原書を収集し始め、日本国内において漸く出版され始めた中医学の解説書や翻訳書も殆どすべてを購入して学習するという、支離滅裂な学習と実践が続く。

しかし、臨床面では当時も日本漢方界の主流を占めていた東洞の流れを汲む「方証相対」を錦の御旗とする実践が中心であり、先輩諸先生方が書かれた書物は殆ど余すことなく学習しつつの実践であった。

 まもなく、みずからの実践的な体験から、日本流における「実証、虚証」の概念について、現代の考えにつながる強い疑問を抱くようになった。
 拙著(東明社発行『求道と創造の漢方』)中の31ページに、十年前頃の「漢方の臨床」誌に発表したものを転載して「胆石症に大柴胡湯」と題し、
胆石症の多くは大柴胡湯の応じる場合が殆どであるということは常識的なことになっている。日頃の健康時の体質的な虚証、実証はあまり関係しないことも事実であり、実際のところは、胆石症や胆嚢炎に限らず、一見脾弱に見える痩せ型で、胃下垂、内臓下垂型と思われる人にも、季肋部や心下部のみが特別に充実しているのを案外見かけるものである。 そんな現実を考えると、一般に言われるところの、大柴胡湯は実証向きで、小柴胡湯は虚実中間、柴胡桂姜湯は虚証向きである、などという言い方は、私は嫌いなのである。こういう見方、言い方は、全体的な、総合的で、しかも却って漠然としたもので、実地に役立つのは胸脇部や心下部の部分的な充実度が重要なのである。したがって身体各部の部分的な虚実を云々するならともかく、漠然と実証だ、虚証だと言うのは、そのことに比べればあまり意味のあることとは思えない。
     −村田恭介著『求道と創造の漢方』東明社刊
と書いている。

 また、その少し前(15年前頃=平成18年からは32年前)には、「漢方の臨床」誌の誌上で、桑木崇秀先生が「陰陽虚実について」と題して中医学的な考え方の合理性を発表されたことで、古方派の先生方と論争に発展したことが印象深かった。
 その時の古方派の高名な先生のお一人が、東洋医学会において、麻黄湯などの太陽病に対する方剤を「表仮寒証」であると提唱されるに至って、私の愚鈍な頭は酷い混乱状態に陥ってしまった。

 当時の私としては、たとえば麻黄湯を「表熱実証」と表現するような日本漢方に対して、「表寒実証」であるとする中医学的な考え方に合理性があると考えながらも、ずいぶん長い間、悩まされ続けていた。その挙句に「表仮寒証」などと提唱されるに至っては、いよいよ混乱の極に達して、いよいよ漢方理論そのものに不信を抱かざるを得なくなった。

 辛温解表薬を中心に配合された麻黄湯を「表熱実証」などと全く矛盾した概念でよしとする日本漢方における錯誤、及び「表仮寒証」と提唱されるが如き晦渋な解釈は、実に理解に困(くる)しむものである。

 ともあれ、当時の私としては、まだまだ中医学の基礎理論に対する理解は浅薄なもので、その当時に紹介され始めた中医学の入門書にしても、「八綱弁証」ばかりを中心に論じてクリアカットに簡略化したものが多く、極めて重要な「臓腑弁証」を疎かにしたもので、その為に却って幼稚な知識しか得られなかった。

 これらの初期の中医学入門書のハシリの多くは、日本の方証相対論に媚びる姿勢が感じられ、処方決定時の選薬方法は弁証論治と言われるレベルには到達しておらず、いたずらに単純な理論化が目立った。
 但し、中医学特有のキメ細かな弁証論治からは程遠い「似て非なるもの」としか言いようがない面があったとは言え、当時としては中医学的な考え方を逸早く日本に紹介した功績は大きいと思われる。

 中医学の正統なものが紹介され始めたのは直ぐその後のことで、十二年前(平成18年からはおよそ29年前)頃には神戸中医学研究会の訳で発行された上海中医学院の「中医学基礎」であったと思われる。日本語で読めるものだけにインパクトは強く、その後しばらくして発行された「漢薬の臨床応用」を手にした時の感激は忘れられない。

 中医薬学の学習にいよいよ拍車がかかったものの、今にして思えば当時の私の漢方はまるでチャンポン漢方で、実践面では日本流の知識に生齧りの中草薬学知識を取り入れての小刀細工が目立った。  党参(とうじん)、金銀花(きんぎんか)、延胡索(えんごさく)、枳殻(きこく)、丹参(たんじん)、鶏血藤(けいけっとう)等の中草薬を盛んに仕入れて独自の境地を進んでいるつもりの、思い上がりの時代でもあった。

 ところが、やがて中医薬学知識が増え、中国における医案集などを学習し始める頃には、却って中医学の難しさを思い知ることとなった。

 ある雑誌で「中医学書を二三度読んだくらいで理解できる訳がない」といった類のことを読んだことがあるが、確かに言われる通りであろう。

 当時の私の漢方は、本誌に過去「中草薬漫談」を発表以後、ずっと本格的に中医薬学を学習して来たつもりであるが、どうしても中医学の実践において、安易に行える日本漢方の方剤中心のパターン認識術の枠内から飛び出す自信が得られないままであった。

 多くの中草薬を使いこなすのも大変なことであり、日々煎薬ばかりの仕事は体力的な疲労を生む。
 まだまだ応用自在な中医学を行うことは出来ずに小刀細工の加減法ばかりであることに気が付いて、愕然としてしまうのであった。

 結局は方証相対論の世界からいつまでも抜け出られない自分が情けなくもあった。

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2018年11月19日

『中医漢方薬学に目覚めるまで』(1)はじめに

 原題「中医漢方薬学 村田恭介著」1989年月刊『和漢薬』誌5月号 通刊432号 巻頭論文

 (1)はじめに

 本論は「中医学と漢方医学」の最後に提唱した私案である。

 また、その「中医学と漢方医学」の続編的なものとして「日本漢方の将来『中医漢方薬学』の提唱」と題して、東亜医学協会発行の「漢方の臨床」誌12月号に発表させて頂いた表題の中心部分でもある。

 更に後者の論旨は「漢方医薬新聞」1月15日号にも「平成元年、漢方への提言」と題して転載された。

 いずれも日本漢方批判を中心に展開しつつ、日本漢方は中医学に吸収合併されなければならない必要性、あるいは必然性を論説した。

 とりわけ後者においては、吉益東洞批判を中心に展開し、現代日本漢方の閉塞状態を訴え、発展性のある「医学薬学」として生まれ変わる唯一の道として、中医学への吸収合併論、「中医漢方薬学」を提唱した。

 そしていずれの拙文においても忌憚のない御批判と御指導をお願いしておいたが、今のところ筆者のものへは、予想外の多くの御賛同やお励ましのおたよりばかりで、御批判のお声は風のたより程度にしか伝わって来ない。

 信じるところを忌憚なく発表させて頂いたものの、浅学なるがゆえの思い違いや考察不足、勉強不足は覚悟してのやむに止まれぬ発表であっただけに、御賛同やお励ましのおたよりは勿論であるが、純粋な学問上のこととしての御批判こそありがたいものである。

 浅学菲才を省みず、どうして私が前記二誌に亙って現代日本漢方を批判しつつ、中医学への吸収合併論を発表しなければならなかったか。

 このことは、過去の私の迷いと煩悶の内容の数々と、そしてそれらに対する自らの回答が答えになるものと思われる。

続きは⇒(2)初期の迷い
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