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2018年10月18日

脾胃系統について

脾胃系統の概括

                                村田漢方堂薬局 村田恭介著

 ●脾胃はすべての疾病と関連する

 「脾胃は中土に居す」と言われるように、脾胃は五臓系統の中で最も中心的で重要な部分である。
 他臓についても五臓間の整体関係から同様な表現が可能であることは言うまでもないが、脾胃系統については、特に強調しておく必要がある。
 すべての疾病の基本構造は、「気血津精の昇降出入の異常と盈虧通滞」と言え、五臓の生理機能はいずれも気血津精の生化輸泄(生成・輸布・排泄)と関係がある。気血津精に過不足(太過や不及)が生じたときが病態であり、五臓間の相生・相克関係は、気血津精の生化輸泄の状況に直接関与している。
 この疾病の基本構造にもとづいて考察すると、脾胃は中焦に位置して五臓の気機が昇降するための中軸であり、他のすべての臓腑と極めて緊密な関係があるので、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及する。
 また、五臓六腑は機能活動を維持するために、精気血津液を基礎物質として必要としており、脾胃が納運する水穀精微は精気血津液を生成する基本的な源泉であるから、脾胃と精気血津液の摂納・生成・輸布・排泄とは密接な関係がある。それゆえ、脾胃に病変が発生すると他の臓腑に容易に波及し、他の臓腑に病変が生じると脾胃に容易に波及するのである。

 ●他臓の疾病に脾胃の論治が必要な場合

 眩暈を主訴とする肝病に対して半夏白朮天麻湯が適応するとき、口内炎を主訴とする心病に対して半夏瀉心湯が適応するとき、浮腫を主訴とする腎病に対して分消湯や補気建中湯が適応するときなどがある。
 逆に、脾胃の疾病に他臓の論治が必要な場合は、嘔吐を主訴とする疾病に対して腎系統の治療薬である五苓散が適応するときや肝胆系統の治療薬である小柴胡湯が適応するとき、下痢を主訴とする疾病に対して腎系統の治療薬である真武湯や五苓散が適応するときなどがある。

●脾胃は病邪の中では湿邪との関連性が最も深い

 湿邪は陰邪であり、粘膩・粘滞な性質を持つためなかなか除去し難く、全身各所の特定の部位で停滞しやすい。
 脾胃は水穀の海であるから湿邪の影響を最も受けやすい。
 湿邪は外湿と内湿があり、外湿は外来の湿邪による病変を指し、内湿は脾虚不運湿による体内から生じた湿邪の病変を指す。
 外湿と内湿の関連性は深く、脾虚不運湿は外湿を招来する誘因となり、外湿が除去されなければ脾が損傷されて内湿を誘発する。
 湿邪は他の邪気と合併することが多く、風邪や寒邪とともに経絡に侵入して痺証を形成したり、寒邪を伴う寒湿の病証や、熱邪を伴う湿熱の病証を形成し、なかでも湿熱の病証が比較的よく見られる。
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ラベル:脾胃
posted by ヒゲ薬剤師 at 07:39| 山口 ☁| 中医学理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月17日

肝胆系統の病機と治法について

肝胆系統の病機と治法の概括

                               村田漢方堂薬局 村田恭介著

 特に注目すべきは、陳潮祖先生が『中医病機治法学』で提示される以下の二項目の見解である。

@肝の疏泄機能は、気血津液精という五種類の基礎物質の運行調節を統括管理するものであるが、このことは「肝が筋膜を主っている」ことと関連があるのであろう、との見解である。

A少陽三焦は、膜原と腠理の二つの組成部分を包括したものであり、表裏上下のあらゆるところに存在し、五臓六腑・四肢百骸の組織と連絡し、津気が昇降出入する通路となっている、との見解である。

 少陽三焦とは、陳潮祖教授が御高著で指摘するように、膜原と腠理から構成される機能体を指している。そしてこれらは肌表、五臓六腑、四肢百骸の各組織と連絡し、津と気が昇降出入する交通路となっているものである。

 膜原(まくげん)は臓腑や各組織器官を包み込む膜のこと。

 腠理(そうり)とは、膜外の組織間隙のこと。

 もっと詳細に述べれば、腠理というのは、皮膚・肌肉・筋腱・臓腑の紋理や間隙などの総称であり、皮腠・肌腠・粗理・小理などに分けられる。腠理は体液のにじみ出る所であり、気血が流通する門戸であり、外邪が体内に侵入するのを防御する働きがあるなどと解釈されるのが一般であるが、
下線部の「気血が流通する」とい点については疑義があり、「気津が流通する」というように、気と津に限定すべきだと愚考する。血を全面的に含めてしまうと、あまりにも流通物質が拡大し過ぎるので、主として気と津とにある程度限定的に捉えたほうが合理的であろう。

参考文献:猪苓湯と少陽三焦

 ●肝の疏泄機能と筋膜の関係

 肝は蔵血の臓であり、胆汁の生化輸泄を主り、血量の調節と胆汁の輸泄を包括していることは一般常識となっているが、気血津液の疏泄調節と肝が主る筋膜との関連については、まだまだ重視されるに至っていない。

 すなわち、供血運行する脉絡と、胆汁を輸送する胆管など諸々の管道は、いずれも肝が主る筋膜によって構成されており、しかも筋膜組織に属する膜原と腠理は、三焦の組成部分でもあることを認識する必要があるのである。膜腠(膜原と腠理)は、衛気が昇降出入する所であり、水液が運行出入する道である。それゆえ、脉絡・胆道など諸々の管道、および膜腠に多少とも変化が生じると、すぐに気血津液の流通に影響する。これとは逆に気血津液の盈虧と通暢に異常があれば、直接筋膜に影響して病変が発生する。なぜなら、筋膜の和柔活利のためには、陽気の温煦・血液の滋栄・陰津の濡潤を必要としているからである。

以上は、

肝の疏泄機能は気血津液精という五種の基礎物質の運行調節を統括管理しているが、このことは「肝が筋膜を主っている」ことと直接関連がある、とされる陳潮祖先生提示された学説の根拠である。

●「肝の体陰用陽」の意味するもの

 五臓はすべて「体陰用陽」であり、何の変哲もない中医学の基礎理論の一つに過ぎないと思われるのに、どうしてわざわざ「肝」についてのみ、「体陰用陽」を特別に強調する必要があるのであろうか?

 訳者が種々の文献類で調査し、考察・検討を加えた結論では、

 「肝は蔵血の臓であり、血は陰であるから肝の実質は陰である。肝は疏泄・昇発・筋の活動などを主り、内に相火が寄り剛猛な性向があって容易に化火動風するので、肝用すなわち肝の機能は陽に属し、肝体と肝用は相互に依存する。」

 という肝の特徴を特別に強調する為の象徴言語とされているようだ、ということである。 もとをたどれば、中国の清代の名医葉天士が、《臨床指南医案・肝風》において「肝為風木之臓、因有相火内寄、体陰用陽、其性剛、主動主昇」と述べた文章が土台となっており、後世において「体陰用陽」という用語だけが、シンボリックな表現として一人歩きし始めたのではないかと思われるのである。

 ところで、肝の体陰用陽のみを取り上げて分析すれば、「肝の実体(実質)は陰血であり、肝の作用(機能)は陽気である。」ということであるが、より簡潔に表現すれば「肝は血を以て体と為し、気を以て用と為す。」ということになる。これは、文匯出版社発行の『中国歴代中医格言大観』における肝の体陰陽用に対する注釈文であり、本書に従えば、肝は血を以て体と為し、気を以て用と為すので、肝は「体陰用陽」と云われるのである、ということである。

 このように、「肝の体陰用陽」という用語のみに着目すれば、当然と云えば当然の中医学基礎理論の用語法の一つに過ぎない訳である。

 ところが、体陰用陽はいつの間にか、前述の「肝為風木之臓、因有相火内寄、体陰用陽、其性剛、主動主昇」という葉天士の述べた主旨を喚起するための枕詞や象徴言語として使用されるようになり、次第に葉天士の述べた主旨のすべてを意味する用語として、定着するに到ったと思われるのである。

 ところで、すべての疾病は、多かれ少なかれ必ず肝と関連するので、もしも難病奇病であらゆる治療に抵抗する場合は、肝胆系統との関連性に基づいた病機分析を行えば、有効な打開策が見付かることが多いといわれる。たとえば、一九八九年に発行された朱進忠著『難病奇治』(科学技術文献出版社重慶分社)は、大いに啓発される内容である。

●附録●中医眼科学における西洋医学検査の重要性について

 眼科疾患は、西洋医学と同様に中医学においても眼科の専門科があるように、かなり特殊な領域である。現代の中医学における眼科治療においては、正確な弁証論治を行う上で、西洋医学的な病態認識が必須事項となっている。それゆえ、必ず西洋医学の眼科専門の設備の充実した医療機関における検眼検査等の詳細な西洋医学的診断が求められる。
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posted by ヒゲ薬剤師 at 11:28| 山口 ☀| 中医学理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月16日

「証」と「症」について

 本拙論は、『和漢薬』誌に陳潮祖著『中医病機治法学』の訳注連載の初め頃に考察した問題だったと思う。
中医学および漢方医学上の「証」と「症」の問題点について

                                  村田漢方堂薬局 村田恭介著

 現代の中国で出版される中国語による中医学書類においては「証」と「症」を混用したものばかりでなく、「症」の字は一切使われず、「証」の字のみで統一されている書籍がかなり多い。筆者の最も愛読する陳潮祖先生の「中医病機治法学」もこの後者のタイプの原書に属し、現在もこのタイプの書籍は個人の著作によるハイレベルな内容のものに多い。

 これらによると一般的な日本における西洋医学用語の「症状」は「証状」や「証候」に該当し、「症候」は「証候」に該当する。

 このため、「証候」の意味には、

 @ 西洋医学用語の「症候」や「症状」と同義の場合。

 A いくつかの症状が複合して一つの病態(病証)を形成したときに使われる「証=証候」の場合(例えば気虚証・腎陰虚証・肝気鬱結証などで、つまり陳潮祖先生の言われる「病機」のことである)。

 の二通りの意味合いがある。

 したがって、それらの中医学原書においては、その著者の流儀により、あるいは前後の文章の意味合いから一々見分けて判断しなければならない。

 たとえば陳潮祖先生の《中医病機治法学》(四川科学技術出版社 1988年発行)の原文では「証」「証状」「証象」「証候」のみで、「症」の字はまったく使用されず「証」の字ですべて統一されている。

 そして原文中の「証」や「証候」については前項で述べた前者@の意味あいのことが多く、つまり日本語の「症」や「症候」に該当し、後者Aの意味で使用されることは比較的少ない。後者Aの意味に対する用語は、本書の題名である「中医病機治法学」が示す通り、主には内経を土台とした「病機」という表現をとられているのである。

中国における最近の傾向

 ところで、昨今の中医学書の中には「証」と「症」の字を厳密に使いわけている書籍も増えてきており、一九九一年五月に東洋学術出版社から翻訳出版された焦樹徳著「症例から学ぶ中医弁証論治」(生島忍訳){原書の初版は一九八二年}において、焦樹徳先生はこの点について次のようにしっかりとした見解を示されている。
ある学者は、症の字と証の字は互いに通用できると提唱している。その根拠は古代には症の字は存在せず、証の字だけが使われていたのだから区別する必要はないとしている。このように、ただ単に一つの文字だけに限って考証して断定するのは正しいことであり、私も同感である。しかし物事は絶えず発展しており、古代に使われなかった文字が現代は存在するのである。そして現在、症の字は習慣的に症状の意味で用いられている。それゆえ、私は、医学の領域で証・症・病に明確な意味づけができ、それが次第に共通の認識となれば、疾病の観察と研究、医学の理論的探求にとって有利であろうと考える。そこで証・症・病について私の考え方を述べ、参考に供したい。・・・・・・・・
 とされ、「症」と「証」の使い方を厳密に区別する必要性を論じられており、未だに多くの中医学原書に採用されている「症」の字と「証」の字を混用したり、「症」の字の存在を無視した方法を改め、中医学の将来のために、厳密な区別を行った使い方を訴えられているものと拝察される。

 ところで、中国の名医、故・秦伯未先生は「中医臨証備要」(人民衛生出版社 初版1963年)中において、
「證」「証」「症」は実際には同一字で同一の意味であり、正しくは「證」、簡略化すると「証」、俗に「症」と書かれる。「証は証候を指し、症は症状を指す」との説があるが、この区別に根拠はない。このような区別をはじめだすと、古い時代の文献を調べるときに錯覚を生じることになろう。
 と警告されていることも忘れてはならないのだが、今後の中医学の発展を考えるとき、焦先生の御見解には強い説得力を感じた次第である。

  中医学教科書での定義

 既に中国国内の教科書類によると、「症」と「証」をきっぱりと使いわけている。例えば「中医診断学」{上海科学技術出版社 初版1984年}によると、
 「症状」と「証候」は全く異なった概念である。「証候」は単に「証」とも呼ばれ、疾病の病因・病機(病理機序)・病位・症状・舌診および脉診所見を総合的に概括したものである。表実証・陰虚証などとして表わされ、この証候とは疾病の本質を意味し、疾病の診断結果なのである。
 とされており、その他の書籍でも四川科学技術出版社の「中医診断学」では、

 「証」と「症」の概念は異なる。「証」は「証候」を指し、疾病の一定の病理段階における病因・病位・病性および邪正の力関係の病理的概括である。一方、「症」は「症状」を指し、疾病が外面的に反映した頭痛・発熱・咳嗽などの一つ一つの徴候である。

 賈何先・王輝武著「提高中医療效的方法」(重慶大学出版社 初版1986年発行)には、
「証」は「証候」を指し、病因・病位・病性・病勢・臨床症状・診断と治療の方向などを概括したものである。
 とあり、陳潮祖先生自らも『中医病機治法学』中の《第三章・治療原則と治療の大法》中の治病求本のところで「疾病の本質というのは病機のことで、昔の書籍では証と言っている」と述べられている通り、「証候」とはまさしく陳潮祖先生がメインテ−マとされる「病機」そのものなのである。

 ところで、一般の中医学の原書においては、症・証・症状・証状・証候はあっても、「症候」という用語は、私が知る限りにおいては殆ど見当らないもので、中国語の辞書にはあっても、実際には滅多に使用されない用語であるらしい。「症」と「証」をはっきり区別して使用されている中医学原書においても、日本語の「症候」も「症状」もすべて「症状」や「症」としてのみ表現されているように思われる。

 蛇足ながら、痺証・淋証・血証などの病名については、病機(証候)を構成する要素の特徴的な共通部分を概括し「証」の字を使って名付けられた概括的な病証名であり、閉証・脱証などの一種の症候名については、疾病に伴う特殊な状況の病機(証候)に対する概括的な証候名である。 

日本語訳における「症候」という訳語について

 さて、「症候」という言葉は、中医学用語の中に適用させるには中途半端でどっちつかずではあるが、方便としては大変便利である。ところが、一般の中医学の原書においては、症・証・症状・証状・証候はあっても、「症候」という用語は、私が知る限りにおいては殆ど見当らないもので、中国語の辞書にはあっても、実際には滅多に使用されない用語であるらしい。「症」と「証」をはっきり区別して使用されている中医学原書においても、日本語の「症候」も「症状」もすべて「症状」や「症」としてのみ表現されているように思われる。

 日本語の「症候」は、中国においては「症徴」や「症状と体徴」などと表現されており、これらの意味そのものを示す時も「証候」と表現される論者も多いようである。

まとめにかえて

   中医学における「証候」の意味(漢方専門の用語「証」の中から引用)
 従来の中医学における「証候」の意味を検討してみると、以下の六種類のようである。
 @ 「証」のこと。つまり、疾病過程におけるその時点の一連の症候にもとづいて把握される病理的概括(疾病の本質)である。
 したがって「弁証」というときの「証」にしても、「病証」と表現される用語における「証」にしても、証候名すなわち証名や証型の意味である。
 たとえば、葛根湯証、桂枝湯証というとき、あるいは営衛不和証・太陽表虚証・表寒表虚証・風寒表証などと表現するとき、いずれも同様に「疾病過程におけるその時点の一連の症候にもとづいて把握される病理的概括(疾病の本質)」ということであり、これを成都中医学院の陳潮祖教授は「病機」としている。
 A 上記@のような、桂枝湯証や営衛不和証と表現される根拠となった症候のこと。つまり、その証の確定根拠となる一連の症候のこと。言い換えると「某証と確定するのに不可欠な一連の症候」のことを指して「証候」と表現されるものである。
 B 一般的な日本で言う「症候」のこと。中医学専門書籍類には不思議なことに「症候」という熟語はほぼ皆無に等しいが、ちょうど日本語の一般的な意味での「症候」を表現するもので、自・他覚症状を一括した意味である。つまり、中国語の「症徴」や「症状と体徴」などと表現されるときの意味と同義語として「証候」と表現されることも多い。
 C 「証候」の意味として、上記の@とAのどちらの意味にとっても間違いではないというどっちつかずの表現で「証候」がよく使われるが、意味としてはどちらに取ろうが、両者を兼ねようが、大きな誤読を誘うような問題は決して生じない。
 D それゆえCの最後の@Aの両者を兼ね、二つの意味をそのまま包括した二重の意味として「証候」が使われていることも多い。
 E病状が進展し、伝変する趨勢を示唆する意味としての「証候」。
 など、表現される前後の文意によってかなり可変的な用語なのである。

 また、 「証」についても「証候」の意味の中で@Aの意味と全く同様であるばかりでなく、Bも同様であり、CとDの二重性をはらんで使用されてきたことは全く同じで、従って「証」も「証候」ほぼ同じものであり、証候の省略形が「証」と考えても間違いではないのである。
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2018年10月15日

構造主義的中医漢方薬学

10年以上前に、偶感的にHPのために書いたような記憶がある拙論。
構造主義的「中医漢方薬学」論
 
         村田漢方堂薬局 村田恭介著

 中医学における五臓間の整体関係については、五臓の組織構造は連繋して一体化し、機能活動は相互に協調しあっているので、五臓を関連づけて分析し、整体関係に注意してはじめて、症状に対する認識を見誤ることなく有効な施治を行うことができる。それゆえ他臓の疾病に対する脾胃の論治や、脾胃の疾病に対する他臓の論治など、実際の臨床では日常茶飯事である。

 このような五臓間の整体関係を重視する中医学は、スイスの言語学者ソシュールを先駆とする「構造論」的な分析が可能である。つまり、言語の様相を体系的にとらえ、各言語間の機能的連関を明らかにして言語の法則を追求する「構造言語学」を主要なモデルとする科学的な分析方法、すなわち「構造主義」を立脚点とし、中医学の検証とともに実践的な発展方向の追究が行えるのである。

 たとえば、個々の既成方剤が適応する症候の構造分析による「病機と治法」の再検討−依法釈方−、個々の既成方剤の配合薬物の構造分析による「病機と治法」の再検討−依薬釈方−など、その他にも構造論的に分析検討すべき領域が余りにも多いので、ここでは序論的な部分のみを述べておきたい。

 フランスの高名な精神科医ジャック・ラカンは、ソシュールの言語学をモデルとして、「無意識は言語のように構造化されている」という命題を出発点としたが、

「生体内の生命活動も言語のように構造化されている」と言える。

 それゆえ、五臓相関の「陰陽五行学説」は構造主義的な科学理論であると言えるのである。そこで、中医学から見た人体の基本構造は「五行相関にもとづく五臓を項とした五角形」であり、病態認識の基礎理論となるべき構造法則は「陰陽五行学説」にほかならない。

 この陰陽五行学説にもとづく「中医学理論」こそは、よりハイレベルな構造法則を求めて常に発展し続けていく必要がある。今後の課題としては、ミクロ的な部分で優れた視野を持つ西洋医学の成果を、中医学の欠を補うべく、どのような形で吸収すればよいのか、という大きな問題が残されていよう。

 とは言え、少なくとも『医学領域における「科学」としての中医学』と合わせて検討して頂ければ、近い将来にも中医学や中医漢方薬学が「構造主義的中医漢方薬学」として認知され、マクロ的には非科学的ではあるがミクロ的な部分で優れている西洋医学をより有効に活用すべく、中医学に吸収合併する形で結合すべき事態の必然性と必要性が見えて来るはずである。

 けだし、フランスのミッシェル・フーコーの著作『臨床医学の誕生』(みすず書房)やロラン・バルトの『記号学と医学』(みすず書房「記号学の冒険」中の論文)で行われた西洋医学に対する構造分析は、極めて示唆に富むものではあるが、整体観の欠如した西洋医学が対象であっただけに、不満足な成果しか得られていないように思われる。

 たとえば、ロラン・バルトが『記号学と医学』の中で、

「徴候学(セミオロジー)と名のついた書物を見れば、医学的な記号学(セミオロジー)=徴候学(セミオロジー)のいくつかの原理を容易に引きだすことができるだろうと思っていた。ところが、そうした書物は、私に何も教えてはくれなかった」と述べているように。

 さらにはバルトもフーコーも、「病気を読み取るということは、病気に名前をつけることなのである」と指摘しているが、西洋医学的な病名=診断名を示すことで、果たして十分に「疾病の本質」が読み取られていることになるのだろうか。病名を提示できても、医学的な実践としての治療を満足に果たせない現実も多いことは、先述のバルトの落胆の言葉の裏返しに過ぎないように思われる。

 いっぽう中医学においては、病気を読み取るということは「病機を把握すること」であり、病機は徴候(一連の症候)にもとづいて把握され、病機を正確に把握できれば、治療方剤もおのずと決定され、治療効果も比較的高い。このように、中医学では医学的な実践としての治療が、病態認識に連動して行えるように体系化されているのである。

 ロラン・バルトは、一九七二年に発表した前述の『記号学と医学』において、

「今日の医学は、いまもなお本当に記号学的(セミオロジー的)=徴候学的(セミオロジー的)なものなのであろうか?」と、西洋医学への問いを残しているが、二十三年後の今日、飛躍的に高度化した西洋医学にとって、極めて意味深長である。

 それにしても、フーコーやバルトがさらに中医学をも対象として、記号学=徴候学(症候群 ≒ 一連の症候 = 証候 = 証)を研究していたなら、「中西医結合」の合理的な実現可能性のある理論を提示できていたことであろうにと、悔やまれるのである。

 構造主義であれポスト構造主義であれ、解釈学に終始して将来に向けての発展的な提言がなければ、価値も半減というものであろう。
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2018年10月14日

科学としての中医学

 類似した内容の拙論も数十年前に各所に書いた気がするが、いつ何時書いたのか、あるいはどこに発表していたのかは現時点では不明。
医学領域における「科学」としての中医学

                                   村田漢方堂薬局 村田恭介著

 陰陽五行学説にもとづく中医学理論は、まぎれもなくスケールの大きな一つの科学理論であることを指摘しておきたい。 まず、構造主義科学論の提唱者、池田清彦氏(山梨大学教育学部教授)の諸論文『構造主義生物学とは何か』『構造主義と進化論』『構造主義科学論の冒険』などの著書を拝読して、村田流に理解したところでは、

 科学とは、現象間の関係記述である。つまり、科学とは変転する現象間の関係を、なんらかの不変の同一性(構造・形式・公理など)によって記述しようという営為である。

 したがって、あらゆる科学理論というのは構造(構造・形式・公理など)という不変の同一性によって、現象という変なるものを変換・体系化したものである。

 それゆえ、最終的に正しい究極の理論というものはありえず、より多くの現象を説明できる理論が、より有効な理論と言えるだけなのであり、背反する二つの理論が同じくらいに有効なときでも、必ずどちらかの理論が間違っている、などということは、決してない。 ということである。

 この二つの背反する理論の具体的な例としては、西洋医学理論と中医学理論を比較すればおのずと明白であり、とりわけ両者における病態観の相違を検討すれば容易に察することができる。

 ともあれ、陰陽五行学説にもとづく中医学理論そのものがすでに現象間の関係記述という構造主義的な理論構成をなしているだけに、医学領域における最先端の科学理論として、再認識されてしかるべきであろう。それゆえ、今後の研究課題としては、中医学を構造論的な方法で徹底的に分析して行く必要があると愚考しているが、これによって昭和の終わり頃から村田が提唱してきた日本漢方の将来のあるべき姿として、弁証論治の中医学に随証治療の漢方医学を吸収合併させた「中医漢方薬学」の確立だけでなく、理想的な中西医結合の方向性を発見し確立することができるように思われる。

 構造論の短絡的な誤解と歪曲の誹りを免れないが、ここで敢えて暫定的に、より具体的な考察を加えておくと、

 弁証論治における弁証の世界では、四診によって認識される一連の症候にもとづいて把握される疾病の本質(病機)を構造とみることができる。このときの構造(病機)は、要素集合(一連の症候)に構造法則(中医学理論という文法)を用いて解読する仕組となっている。つまり、

 構造(病機〈疾病の本質〉)= 要素集合(一連の症候)+ 構造法則(中医学理論)

 と定義することができよう〔勁草書房発行・上野千鶴子著『構造主義の冒険』の十五頁を参照〕。

 けだし、構造主義科学論の視点から見ると、中医学には「整体観」という構造論的な視点が既に確立しているのにくらべ、西洋医学においては−ミクロ的にはともかく−マクロ的には構造論的な視点が比較的乏しく、このために西洋医学は「非科学的」であると言われてもしかたがないのである。したがって、現在の西洋医学においては、

 構造(病名〈疾病の本質〉)= 要素集合(諸検査を含めた自他覚症状)+ 構造法則(西洋医学理論)

 という関係式は成立し得ていない。

 つまり、西洋医学では全体系を支配する構造論的観念が欠如しているために、西洋医学理論は構造法則としての文法が不完全なものであり、それゆえに西洋医学における病名は、構造分析によって導きだされる「疾病の本質」を表現するものとしては、常に不完全なものでしかない訳である。

 それゆえ、中医学に西洋医学を吸収合併させ、西洋医学の特色である諸検査を有効に活用する方向こそが、臨床医学という現実に即した、今後の新しい医学の方向であると思えてならないのである。

 とは言え、小論の目的は我田引水的に中医学が完全無欠であると訴えているものではなく、構造主義科学論の立場から見ると、中医学理論のみならず「陰陽五行学説」そのものが、一つの立派な科学理論であるということ、および前述の構造の定義を用いて解読すれば、西洋医学においてさえ、非科学性が見えてくることを述べたかったのである。

 のみならず、最も重要な問題としては、西洋医学という中医学とはかなり異質な医学を、前述の構造の定義にもとづいて比較検討しつつ詳細に分析すれば、西洋医学におけるミクロ的な部分における高度な科学性が改めて認識され、構造論的に見て完成度の高い中医学においても、四診内容の未熟性と疾病の本質を示す病機の表現のありかたの未熟性を認識することができるということである。

 しかしながら、両者を結合する方法論としては、科学的な理論体系として既に完成度の高い中医学に、マクロ的には完成度の低い西洋医学を吸収合併させることこそ、疾病の治療を目的とした臨床医学の要求にこたえ得る、より優れた医学・薬学が創造される道ではないかと愚考している訳である。
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posted by ヒゲ薬剤師 at 05:38| 山口 ☀| 中医学理論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする